「黒羽君、ちょっと落ち着きましょう」
 
 少しだけ焦った様子の白馬が、目の前の人物に対して引きつった笑顔を浮かべた。
 尻餅を付くように半分倒れた体を両腕で支えながら、気持ち無意識に後退した白馬の背に、ガタンと教卓がぶつかる。
 白馬の直ぐ眼前には、逃がさないと言った目で白馬をじとりと睨みつける黒い瞳。
 その体はまるで押し倒すかの様に白馬の上に乗り上げていて。
 場所は、夕暮れの教室。
 
 ――この状況は。
 
 自分の太腿の上に跨る、快斗。
 
 ――何というかとても。
 
「あ?いーから口開けろって」
 
(よくないでしょ―――っ!)
 ケロリとした調子で白馬の口元にフォークを突き出した快斗に、白馬は心の中で絶叫した。
 
  時間は、少し前の教室に戻る―――――。
 
 
 
「やっぱり、らしくないですよね……」
 誰もいない放課後の教室。小さくため息をついて、白馬は手にした箱から覗く白い陶器を見つめていた。
 再び息を吐くと、今度は決心したように、割れないように包装し直したそれを鞄の中へと仕舞い込む。
 しんとした教室に、隣の教室や廊下から賑やかな生徒の声が遠く響く。
 学園祭を明日に控えた校内は、下校時刻を過ぎてもまだ多くの生徒が残って準備作業に追われていた。当然このクラスもそうなのだが、出し物は喫茶店。よって準備の全ては当日使う家庭科室の方で行っていた。だからここには白馬しかいない。
(…そういえば今日は前夜祭もやるって言ってましたっけ)
 窓の外、暮れかけてきた空を見て白馬は立ち上がった。
 本来なら自分も協力を惜しまないのだが、急の依頼を受けて今夜の便でイギリスへ発たねばならなくなったのだ。
 残念だが、仕方の無いこと。
 そう思い教室を後にしようとした白馬の視界に、ふと影が落ちた。顔を上げて、そこにいた人物に小さく目を瞠る。
「……黒羽君」
「よお」
 片手にスポンジケーキを乗せた快斗が、軽く手を挙げた。
「白馬、ケーキ食べてけよ」
 脈絡の無い突然の言葉と共に、白馬の視界は反転した。

 …そして冒頭。
 

(一体これはどういう事なんでしょうか……)
 白馬は己の状況をしばし見失い、呆然と目の前の人物を見つめた。
 自分の両腿に乗り上げるのは暖かな重み。
 ――――黒羽快斗。
 それは片時も忘れられない名前だった。
 例え国外にいても彼に関するニュースは常に世界中を駆けていたし、それを耳にする度に白馬の胸は不思議な感情で乱された。
 安堵。それは変わらぬ彼の存在に対して。
 興味。それは彼の新たな手口に対して。
 そして確信と興奮。いつかこの手に捕まえるのは、自分なのだと。
 しかしその人物は今、あろう事か自分の太腿の上に跨り、正面で向き合う形で座っているのである。
 ずしりとした体重が白馬の両足をしっかりと冷たい教室の床に押し付けている。
 しかし、その重みは随分と白馬の予想に反していて。
(ちょっと軽すぎやしませんか…?)
 白馬の眉間にふと小さな皺が寄った。
(身長は僕とそう変わらないというのに……副業も大概にしないと、夜もろくに寝てないんじゃ……)
 
「!」
 いつもの分析癖に攫われかけた白馬の思考を現実世界に呼び戻したのは、快斗が一歩、太腿の上で白馬の方ににじり寄った感触だった。
 その柔らかさに、なぜか鼓動が跳ねて白馬は焦った。
(この状況はちょっと……いやかなり、まずいでしょう)
 はっと我に返って身を起こそうとした白馬の左手首に、シャラリと小さな金属の音。まさかと目を向ければ、小さな手錠が自分と教卓の脚を繋いでいた。
 ……いつの間に。
 今度こそしっかりと状況を把握して白馬が覚醒した。
「黒羽君……」
「うるせーな、いいからホレ、あーん」
 ため息をつく白馬に対して、快斗はにっ、とまるで悪戯が成功した子供の様に嬉しそうに笑ってフォークを突き出した。
 白馬は諦めて、コツンと頭を後ろの教卓に凭れた。
「…だからまず、説明して下さい。どうして僕が、そのケーキを食べなくちゃならないんです」
 今度は快斗の方が少し顔をしかめた。ちらりと手元の紙皿に乗る三角の紅茶色をしたパウンドケーキを見遣り。
「……明日の喫茶店のメニューだよ。青子たちがついさっき焼き上げたんだ。味見しろって渡されたんだけどさ」
「尚更、僕が食べるわけにいかないじゃないですか」
「……食べればわかるんだよ!」
 拗ねた子供のように、すこしむくれた顔を背ける。
 その動作に苦笑しつつ、どうやらこの状況を脱するには大人しくケーキを食べるしかないらしいと白馬は悟った。
「……わかりました」
 白馬は顔を傾けて、口元に突きつけられたままのフォークにぱくりと口に含んだ。
 しっとりと濡れたパウンドケーキの甘さが口に広がる。
 同時に……。
「……魚?……」
 口中に広がるほのかな香りに、白馬は眉を寄せた。
「……せーかい。明日のメニューの目玉は手作り健康なんとかっつーお菓子らしいぜ」
 面白くもなさそうに、快斗が次の欠片をフォークに刺して、ん、と白馬に差し出す。
 それを差し出されるがままに口に含んで、味わう。
 魚とは言っても実際は風味だけで、ケーキとしての甘さを損なってはいない。よく出来ていると思う。
 彼女も快斗の魚嫌いを知ってはいるが、これならと思ったのかも知れない。
 でもやはり無理だったのだろう、快斗は不味いと本人につき返すことも出来ず、黙って食べてくれる相手を探していた…というところだろうか。
 目に見える様なその行動を思い浮かべていると、それが顔に出ていたらしい。
「……何笑ってんだよ」
 少し顔を赤くして膨れた本人に睨まれた。
「いやぁ、上手く捕まえられたなぁ、と思いまして」
「?」
 ……本当に捕まえられっぱなしですよ、君には。
 わからないと言った風な黒い瞳を覗き込んで小さく笑うと、白馬はそうだ、と足元に転がっていた鞄を指差した。
「すいませんが水を汲んできて貰えますか。流石にケーキだけを食べつづけるのはちょっと…カップなら丁度その中に入っていますから」
「わかった」
 快斗は一旦紙皿を床に置くと、白馬の鞄を開いた。直ぐに目的の白い箱から包みを外してカップとソーサーを取り出した快斗が、声を上げた。
「うっわ、なにこの無駄に高そうなアンティーク物。なんでこんなもん学校に持って来てんだよ」
 ひょいとソーサーの裏をひっくり返して底に書かれた文字を見てとると、快斗は更に眉を寄せた。
 彼のことだ、そのカップがどれ程の値打ちの物かは即座に判断出来ただろう。しかし何も言わずに立ち上がると、水を汲みに廊下へと赴き、戻ってくるなり快斗は再び自分の脚の上に乗っかって座った。あまりに自然に行われた動作に、白馬は驚く。
 あくまで自分を逃がさない為なのか、それとも無意識の行動なのか判断が付かず、白馬は黙ってその重みを享受した。
(しかし、誰かに見られたらどうするんでしょうね、この体勢)
 餌付けをされる動物の気分を味わいながらぼんやり快斗の手から再びケーキを食べていると、ふいに快斗が口を開いた。
「……変わったモチーフ使ってるな、これ」
 白馬に水を含ませながら、その目線がカップを辿る。
 青ベースのそれには、浮き彫りで真っ白な鳥が幾つも羽ばたいていた。柔らかな曲線が、しなやかなデザインを組んでいる。
 
「……誰かを、思い出しましてね。衝動買いをしました」
 衝動買いって額かよ、と小さく呟いて、快斗が苦い顔をした。
「誰かって?」
「さぁ?黒羽君が一番良くご存知じゃないかと」
「なんだよ、それ」
 わからないという顔を作る快斗に、楽しげに白馬は告げる。
「いつかは捕まえますよ」
「…だから誰を」
「君を」
「なんで俺がお前に捕まらないといけないんだよ」
「悔しいからです」
 ……いつも、どこにいても自分ばかりが捕まえられていて。
「なん…」
「手錠、外してもらえますか」
 まだ何か言いたげな快斗を遮って、白馬はケーキを指差した。紙皿は既に空になっていた。
「……ほらよ」
 釈然としない表情で、快斗がぱちんと指を鳴らした。途端にカシャン、と小さな音を立てて手錠が外れた。
 相変わらず手品の仕掛けだけは、理解の及ばない部分が多い。
 いい加減疲れてきた上半身や腕の重心をずらしながら、白馬は快斗に苦笑いの表情を向けた。
「そのカップ、差し上げますよ。元々黒羽君のお土産にと買ったものです」
 びっくりしたような表情で、快斗が白馬を見た。
「……なんだ、忘れてたのかと思ったぜ。俺の存在」
「忘れられる筈がないでしょう」
「……」
 快斗はしばらく手の中のカップを見つめていたが、ふいに白馬の上から降りて立ち上がった。
 そのまま皿とフォークをもう片方の手に拾い上げると、くるりと背を向ける。
 急に軽く冷たくなった両脚を少し寂しく感じながら、慌てて白馬も鞄を拾って立ち上がる。
「行って来い、イギリス」
「え?」
 突然振り返った快斗は、強気な光を瞳に乗せて笑っていた。
「邪魔者がいない方が、こっちもゆっくり羽が伸ばせるってもんだ」
「……その羽は真っ白なんでしょうねぇ」
「さあな」
 いつもの不敵な笑み。何故かぽんと、白馬は今日の快斗の行動のもう一つの理由がわかった気がした。
「何処にいても、忘れません。だから…」
 快斗の肩に手を回し、自分の方を向かせた。そして軽く、唇からキスを攫う。
「なっ…」
「僕にもお土産を下さい」
 両手が塞がって身動きの取れない快斗が、怒りと羞恥に見る見る赤く染まりながら叫んだ。
「意味わかんねーよっ。何が土産なんだよ!大体これじゃ置き土産だろ!」
 混乱しているのか、快斗の言うことも意味不明だ。
「黒羽君も忘れないで下さいね」
「何を!」
「僕以外に捕まえる相手はいないって事をです」
 言うだけ言うと、白馬の姿は廊下に消えていった。
 後にはあっけにとられた快斗が一人、残される。
 
「………どっちがだよ……」
 小さな呟きは、夕陽の中に赤く溶けた。
 
 捕まえるとは、白馬の事なのか快斗の事なのか。
 
 ―――答えは二人のみが、知っている。
 
 
 

 
 
 
 
 
 Fin.
 
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 怪盗と刑事(探偵)ってのはもー…大好物すぎます。昔から私の萌えの定番。