盟 約 2 |
「俺の部下が世話になったそうだな?」 横柄な態度で、全身に重々しい鎧を纏った男はゆるりとサンジを見下ろした。 椅子の脇で、ギンが頭を垂れる。 血塗れで行き倒れていた男、ギンを助けたのは偶然だった。 しかしそれが、サンジの探していた男に結びつくとは。 ――時が来たのだ。この機会を逃すわけにはいかない。 サンジはゆったりとした足取りで男の近くまで進むと、小さく拳を握り締めた。 「で?わざわざこの俺を呼び出してまで何の用だ、人間。…俺を誰だか知っての事だろうな」 冷たい目の男を、サンジは見据えた。 「ああ…悪魔公爵ドン・クリーク。知っているさ。お前を――ずっと探していたんだ」 「ほう」 口を歪めてクリークが笑う。 「さて、お前とはどこかで会ったかな?」 「……10年前、大きな海難事故があったろう?」 サンジの言葉に、クリークは控えるギンから受け取った葉巻を咥えて火をつけた。 一呼吸大きく吐き出せば、甘ったるい香りのする紫煙が薄く広く部屋を満たしていく。 クリークはため息のように大きく煙をサンジの方に吹きかけ、足を組みなおした。 「そんな些細な出来事、覚えちゃいねぇなァ。俺たちに与えられた時間はえらく長いもんで」 答えを期待せず、淡々とサンジは告げる。 「巨大な豪華客船が1つ、丸々海に沈んだ」 「…あー…」 悪魔はわざとらしく首を傾げてニヤニヤとサンジを見下ろした。 「そういや、そんな事もあったかもしんねぇなぁ」 「……」 「いや、待て待て、思い出したぞ」 纏わり付くような甘い煙に小さく眉をしかめるサンジの前で、クリークは手を振った。 「ああ……あれは最高の夜だったぜ」 うっとりするように、煙がゆらゆら立ち上る。 「そうそう、ある女のささやかな願いを叶えてやっただけさ。自分のもとを去る恋人とずっと一緒に居たい。それを叶えてやった」 表情を変えないサンジの前で、クリークは肩を揺らす。 「深い深い海の底で、きっと今も一緒に居るだろうよ」 「……その他数百人の魂と一緒にか」 冷たい声のサンジに、クリークは肩を竦めた。 「船は別に俺が沈めた訳じゃねぇ。あの時は色んな同胞が魂を食いに来てたからな。沈んじまったのはまぁ、……偶然だ。そうだろう?」 問われた傍らのギンが「ハイ」と頷く。 悪魔に真っ当な答えなどはなから期待はしていなかったが、サンジはつい目線の温度を下げてしまう。 「……で?」 半分以上燃え尽きた葉巻を手で握り潰し、クリークが見下ろした。 「それがどうした。その船に好きな女でも乗ってたか?」 サンジは極力感情を抑えて、目の前の悪魔を見据えた。 「…老いぼれたジジィの片足と引き換えに、子供を助けたろう」 「――…あぁ」 クリークが目の奥で笑う。 「そんな契約もあったかもしれねぇな」 クリークは脚を組みなおし、台座に頬杖を付いた。 「まぁ、お前は俺の部下の命を救ってくれた。その礼に聞いてやろうじゃねぇか。――望みを」 「その時、子供の命と引き換えた足を、返してもらいたい」 「…おいおい」 サンジが言った瞬間クリークは呆れたように口を開け、それから大きな声で笑い出した。 炭と化した葉巻を床に投げ捨て、肩を震わせる。 「返してもらう、はねぇだろう。それは契約代償として頂いたもんだぜ。こっちだって与えてやったモンがあるんだ。戻したいなら同じだけ価値のあるモンと交換ってのがルールってもんだ」 悪魔は慈善事業じゃないんだぜ? 馬鹿にしたように見下ろす悪魔の巨体を前に、サンジは臆せず見上げる。 「…何ならそれに見合う」 「まぁ、順当に言やぁその時引き換えにしたガキの命だが…」 悪魔のうっすら紫がかった目が、サンジの全身を舐めるように検分する。 「生憎10年分育っちまったせいで、どうも対価にするにはデカすぎる。そうだな…」 「その右腕1本でいいぜ」 ひた、とクリークの目が止まる。その言葉に、サンジの体が僅か動いた。 「……本当にそれで、返してくれんのか」 「ああ、俺たちは契約に対して嘘はつかねぇよ?」 ニヤリ、クリークが笑う。 「ただしだなァ、『サンジ』」 「……ッ!?」 ガクリ、不意に意志に反して体が折れて、サンジは床に片膝をついた。 その瞬間、クリークの脇からギンが躍り出た。携えたトンファーがサンジに向かって振り下ろされる。 「ッ…!」 反射で体を捻り一打目を避ける。が、ギンのもう片方の腕から繰り出された二打目がわき腹を打ち、サンジは石の床を転がって数メートル先まで吹き飛ばされた。 「……ぐ、ッ」 穿たれたような衝撃にミシミシと肋骨が悲鳴をあげる。 痛みに痺れた腕を即座に背中に回し、サンジはベルトに挟んであった得物を掴むとギンに向けて立て続けに引き金を引いた。 1発目がギンの頬を掠め、2発目はかわされ、3発目がその横腹を捉えた。 「…ッ」 小さくギンの顔が歪み、穿たれたその傷跡から白い方陣が浮かび上がった。 聖なる言葉を刻んだ銀の弾丸。しかも情報屋が改良を重ねた特製だ。 ギンほどの中級の魔族ともなるとそれは只の足止めにしかならないが、僅か動きを止めるだけで充分だ。 体の自由が利かず苦悶の表情でもがくギンを尻目に猫の様に素早く体を起こした所で、再びクリークが口を開いた。 「『サンジ』」 まるで見えない圧力に押さえ込まれたように、突然サンジの体が床に折れた。 「なに…」 骨や筋肉、いやそれよりもっと重く、体の中心が何かに掴まれたように大地に縫いとめられる。 その背後でヒュ、と鋭く風を切って振り下ろされる気配。 「ぐァ…ッ!」 かわす事も出来ず、再び強烈な打撃を背中に食らってサンジは床に倒れた。切れ切れに潰れた空気を肺から漏らすも、痺れたように体が動かない。 ゴロリと靴裏で体が裏返され、ぐっと首が冷たい鉄の棒で圧迫される。 見上げた先には、興奮した赤い瞳でサンジを見下ろすギン。 ヒュー、ヒュー、と僅かな隙間から、自分の喉が浅い呼吸を繰り返す。 僅かに言葉を紡ごうとしたサンジの気配を察したのか、首を押さえつけるトンファーの圧力が強くなってサンジは苦しさに眉を顰めた。 どくどくと耳の奥で大きく聞こえるのは、逃げ場のない自分の鼓動。 「残念だったな」 遥か先の台座から、クリークがゆらりと立ち上がった。 「……」 「どういうつもりだって、言いてぇようだなァ?」 言葉を紡げないまま睨むサンジの表情を見て、クリークが笑う。 「俺ァ望みを聞いてやるとは言ったが、叶えてやるとは言ってねぇ。俺たちは契約を守るが……それは契約が成立した場合の話だ」 赤い絨毯を音もなく男が進む。 「それまで、何もしちゃいけない、なんてルールはねぇからな」 真上で楽しげに笑うその顔を睨みつけ、サンジは自由になる片手を握りしめながらそっと、手の平の中に指先を滑らせた。 「おっと」 「…ッ!」 ガツ、とその手が踏まれ、書きかけだった呪符印が壊れる。ギンだ。もう片方の手もトンファーの先で押し潰される。 「……サンジさん、悪魔にはね、絶対名前を教えちゃいけねえ」 酷く優しい、けれど上擦った声でギンが囁いた。 「サンジさんの場合直接俺らに告げた訳じゃないから効力は薄いが…」 「それでも体の自由を奪うくらいは造作もない事だ」 ギンの言葉をクリークが引き継ぐ。 「名ってなぁ、そのものの魂を晒す言葉だからな」 「………」 「俺たちの名前だってそうさ。だが強大な力を有する俺らの魂を、たかが人間如きが縛ることなんて出来ねぇ。それが出来るのは……契約のみだ」 床に縫い止められ身動き一つ出来ないサンジを見下ろし、不意にクリークはニヤリと笑った。 「よぅく覚えてるぜ、あの夜の事は。赫足のゼフ……あれは傑作だったよなぁ!まさか俺たちの天敵であるエクソシストがなぁ!」 堪えられなくなったのか、男は大きな笑い声を立てて腹を抱えた。 「まさかガキ一人の為に……自分達が散々殺してきた悪魔相手に頭下げやがった」 「……ッ」 サンジの体が怒りに震え出す。必死に堪えるも、赤く染まった顔までは隠し切れない。悪魔は身動きできないサンジを眺めながら、料理する得物を前にした肉食獣のようにゆっくりと周りを回った。 「軸足1本。アイツが只の力のない老いぼれに戻って、俺たちと契約した事を一生悔やみ続ける……ありゃぁ充分過ぎる対価だったぜ」 「……ッ」 胸が裂かれ、血が滲むような怒りの渦が体の底から迸りそうだ。 サンジは青い目をギラギラと光らせて目の前の男を睨んだ。 かつて、名うてのエクソシストだったゼフから全てを奪った悪魔。 そしてそうさせたのは――自分だ。小さく消えそうになっていた命を、彼の前に晒してしまった。 偶然にせよ、そこにサンジの意志がなかったにせよ、起こってしまったのは事実。そして原因が自分であるのも事実なのだ。 助けてもらった恩には、いつかゼフを凌ぐエクソシストになってその脚を奪い返す事で報いる――そう意気込むサンジを、決してゼフは認めなかった。それどころかエクソシストになる事すら許してはもらえなかった。 反対を押し切るように養父の元を飛び出し、独自に修行もし、経験も実力も身につけてきたつもりだった。 そしてようやく、長年追い求めてきた相手との接触のチャンス。――機が満ちたと思った。 けれどまだ自分には――力が足りない。 悔しい、諦めたくはない、けれど今自分は指先の一つも動かせない、この圧倒的な差。 「綺麗だ…サンジさん」 体を押さえつけるギンが、うっとりと声を潤ませた。 「こんな綺麗な魂、俺は知らない。復讐と後悔と躊躇いと…色々な炎が揺れている」 あの赤脚が、サンジさんをこの世界から遠ざけたかったのがわかる――呟きながら、ギンが脈打つサンジの白い首筋をゆるりと舐めた。 ゾワッと肌が粟立ち、嫌悪にサンジは顔を歪めた。 「ドン、お約束の通り、この人は好きにしても…?」 襟元に興奮した息を吹きかけながら、ギンが見上げる。 「俺はもっと純粋に一色だけの濃いのが好みだがな。……くれてやる。好きにすればいい」 「ありがとうございます…!」 嬉々としたギンが、押えられたサンジの首筋に手をかけた。 「ああ、サンジさん――」 青白い悪魔の顔が近づき、撫でるように胸元に滑り落ちた手がサンジのシャツを引き破った。 露になった胸、その心臓にギンがそっと唇を寄せていく。 悪魔のキスは、氷のキスだ。 相手の心を縛って壊す、傀儡の術――。 『――呼べ』 不意に、サンジの脳裏を男の姿が過ぎった。 『――何かあったら――俺の力を借りたいなら……呼べ』 緑頭の隣人。彼の声が蘇る。 「……っ」 誰かに助けを求めるなど、サンジには到底ありえない事だ。 プライドが、そして幼い頃から養父にでさえ一度たりとも甘える事の出来なかったその性格が邪魔をして絶対に許さない。 けれど。 「……ゾ…」 するりと心に入り込むその声が、サンジの唇を震わせた。 『俺の名前を、呼べ―――』 「―――――ゾロッ…!」 掠れた声が空気を震わせた瞬間。 ――キン! 静かに、けれどはっきりと鋭い、白い一閃が突如宙を斬った。 「……ッ!?」 瞬時にサンジの体を離し、素早くギンが飛びのく。 その後の空間に斜めに真っ直ぐな亀裂が入り、まるで硝子が砕けるようにガシャンと一部分が崩れ落ちた。 崩れて亜空間の覗くそこから、す、と人の手が現れた。 開ききらない空間の穴を蹴り壊し、ゆるりと姿を見せたのは緑頭の―――。 男は足下のサンジを見下ろすと、ニィ、と笑った。 「これで契約成立だなぁ?」 「――サンジ?」 その響きはどこか甘く、サンジの体の奥が小さく震えた。 |
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