盟 約 1
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 古ぼけたアパルトメント。薄い玄関のドアを開ければ、1Fに住む大家の部屋から漏れ聞こえるTVの音と笑い声。それらをBGMに正面に続く階段を、サンジは疲れた体を引きずるように登った。
 革靴の下で腐りかけた床板がギシギシと音を立てる。
 2階の廊下、並んだ四つの扉の一番左端に立ってポケットから出した鍵を古びたノブに差し込む。鍵穴の中で軽く押し上げるように浮かして回せば、ガチ、と幾分硬い音を立てて鍵が回った。長年の錆びのせいで変な癖が付いていて、ここの部屋の鍵はこうしないと開かないのだ。
 サンジがドアノブに手をかけると同時に、ガチャ、とすぐ右隣の扉が開いた。
 目線を上げれば、部屋の中から顔を覗かせた緑色の頭をした男が、同じく隣にいたサンジに気づいてて小さく眉を上げた。
 
(……隣、借り手がついてたのか)
 しばらく前まで東洋系の男たちが出入りしていた隣の部屋は、このところずっと空いたままだった。明け方まで聞こえるどこの国ともわからない言葉には少々辟易していたのでサンジとしては願ったりだったのだが。
 朝早くに出勤し夜遅くに帰宅する生活を送っているので、サンジはこのアパートの住人ともほとんど顔を合わせたことがない。なので勿論昼間に行われたのであろう隣室の引越しなど気づきもしなかった。
 今まで大して気配を感じなかったくらいだから、今度の住人はとりわけサンジの生活の邪魔にはならないようだ。
 軽く会釈をして部屋に入ろうとした横で、唐突にぐぎゅる、と音が鳴った。
 
「……」
 あまりにも大きな音に思わず再び顔を上げれば、緑頭がじっとサンジを凝視していた。
 威圧的とも言える、強烈な目線。筋骨逞しい体型と相まって、大抵の人間なら気圧されてしまうかもしれない。
 かち合った視線に反射的にまなじりの力を強めたサンジの前で、男は一言のたまった。
 
「……いい匂いだな」
 頷くように、もう一度ぐぎゅ、と男の腹が鳴る。
「……」
 一体コイツはどこの獣だ、と思った。
 確かにサンジの職場はレストランで、髪や肌には一日中篭り切りの厨房で散々浴びた油と出汁と食物の匂いがこびり付いて離れず、ある意味美味しそうな匂いになっているのだろう。
 しかし一応私服に着替えているのだし、近距離まで近づいて匂いを嗅ぐならばわかるだろうそれを、この距離で嗅ぎ取るとは。
 
「……腹、減ってんのか」
 仕方なくため息をついたサンジの言葉に、男はガリ、と緑色の頭を掻き回した。
「あー…悪ぃ。イマイチ勝手がわからねぇんだが、この辺に」
「寄ってくか」
 続く言葉を切ると、サンジはくい、と自分の部屋を指した。
「この辺りには深夜営業の美味い飯屋はねぇんだ。俺もこれから飯にするし、お隣さんの挨拶代わりに」
 男がびっくりしたように目を開き、サンジをまじまじと見た。
「そりゃ…願ってもねえな」
 に、と笑った瞳の奥で、小さくゆらりと金色の炎が輝いた。
 
 
 
 
 
 
「今日はご馳走さん」
 玄関でふと振り返り、その男はじっとサンジを見つめた。
 食べ方を見ても思ったが、まるでしなやかな獣のような男だ。相手の動向をピタリと見据えるように、逸らされない視線もどこか野生を思わせる。
「お前、名前は?」
 男の言葉に、そうえばお互い何を話すでもなくただ食事をして、自己紹介もろくにしていなかったことに気づく。
「ああ悪い、俺はサンジだ。ヨロシクお隣さん」
「サンジ」
 男が響きを確かめるように繰り返す。
 
「俺の名はゾロだ。……ロロノア・ゾロ」
「……ゾロ」
 ふわりと頭に沁み込む響き。
 そういえば、不思議な男だ、と今更に思い返す。
 カトラリーを操る時に見えた手の平の厚さ、特に指の付け根にあるタコから何かしら日常的に掴むような力仕事をしているのではないかと思ったが、そのくせ独特の「匂い」がしない。
 例えばサンジならそれは、調理場の油臭さと煙草臭さ。
 一般的な男の場合は汗臭さや独自の体臭だったり、普段使っているトワレや部屋に置いてある芳香剤の移り香。サンジは職業柄割と匂いには敏感だ。
 しかし自分の部屋に引き入れても、ゾロからは普段嗅ぎなれた自分の匂いを乱すような、余所者の匂いはしなかった。
 こんなにも印象強い顔や雰囲気を持つくせに、存在自体が気配なくするりと入り込んでくるようだ。
 けれどそれに対して不快感や不審感といったものは沸き起こらない。
 
「…ゾロ」
 もう一度繰り返したサンジに、ゾロが小さく頷いた。
「そうだ。何かあればいつでも呼べよ――サンジ」 
 低く囁くように言われた名前に、小さく体の奥底が震える。
 それは仄かに、滑らかに。
「いいな?」
 柔らかな声が耳の奥に滑り込む。
 サンジはその目を見ながら無意識にコクリと頭を揺らしていた。
 
 
 
 
 
 * * *
 
 
 
 
「これが最後の品だ…また次も会える事を祈ってるぜ」
「ああ」
 闇夜の路地でそっと交わした言葉。背を向け街に戻りかけたサンジを、馴染の鼻の長い男がおい、と呼び止めた。
「……お前が居なくなったら俺の稼ぎも減るんだからな、そこんとこ…わかっとけよ」
「わかってるさ。…ありがとな」
 情報屋にしては命取りにもなるその優しさに、サンジは小さく笑って今度こそ背を向けた。
 
 
 吐く息が白い。真っ黒い空からは今にも雪が降ってきそうだ。
 首元に巻いたマフラーに顔を埋め、背を丸めて家路を急ぐ。
 サンジの日常は主に職場であるレストランとアパルトメントの往復。そして時々、こうしてイレギュラーで夜遅くまで働く事もある。
 闇を渉る情報屋、彼らから不定期に舞い込む情報を買いこみ、街の裏路地を音もなく駆ける。
 
 サンジは夜道に響く自分の足音を聞きながら、ふと最近馴染となった緑頭の隣人の顔を思い浮かべた。
 こんなに寒い夜、あの男は何を食べたのだろうか。
 今日は自分は遅くなると言ってあるから、きっと適当なジャンクフードに酒でも呷って寝てしまったのだろう。
 
 ゾロとはどうやら活動のリズムが似ているらしく帰宅のタイミングが同じ事もしばしばで、あれから再び食事に誘ったのはサンジの方だった。
 性格的にはそこまで馬が合うというわけでもなく、どちらかと言えば口論になる事も多いのだが、ゾロと居るとなぜか旧知の友人のように空気が馴染んだ。以来、時間が合えば毎日と言っていい程サンジはゾロと一緒に夕食を取っている。
 
 誰かと一緒に食事をするのは、随分前に祖父と一緒に暮らしていた時以来かもしれない。
 気づかないうちに人恋しくなっていたのだろうか。でもどうしてレディではなくあの緑頭なんだと苦笑する。
 あまり多くを語らない、けれどサンジの作った食事だけは残さず綺麗に食べてくれる、あの男の持つ雰囲気がサンジは好きだった。
 日常生活にあまり多くを求めないサンジにとっては、これは珍しいことだ。
 自分の時間など省みず、何年もずっと独りでサンジは暮らしてきた。
 それは全て唯一つの目的の為だけに。
 けれど、それもきっともうすぐ終る。
 
 
 古びた階段を上り、癖のある鍵を開けて部屋に入った所で、サンジはギクリと足を止めた。
 ボウ、と暗い部屋の奥に青白い男が立っていた。
 男の周りは薄く発光しているかのように、暗闇でもゆらりと細いその身が浮き上がって見える。
「サンジさん」
「…ギン」
 目の下に隈の目立つ顔色の悪い男が、やや俯き加減のままサンジの方に向き直った。
「ドンが、お会いになるそうです」
「…そうか」
 サンジはひとつ呼吸を吸うと、溜めた息を静かに吐いた。足下に荷物を置いて、一歩進み出る。
 
「なら今、この場で」
「わかりました」
 ギンは目を伏せると、胸元から先端に鉄球の付いたトンファーのような武器を取り出しそれを大きく振り上げた。
 空中で旋回したそれが力強くサンジの部屋の床に叩きつけられる。
 途端、紫色に光る亀裂が放射状に広がり、ガシャン!と大きな音を立てて空間が崩れ落ちた。
 バラバラと欠片になって、サンジの部屋の光景が崩れ落ちていく。
 足元に広がるのは奈落。細かくなってやがて消えていく欠片を吸い込みながら、ゆるやかな浮遊感がわずかにサンジの前髪を揺らす。
 
 徐々に上下左右の感覚が無くなりかけた数秒後、靴の裏に硬い石の感触がしたと思った時には、サンジは燭台の灯る薄暗い石造りの部屋の中に立っていた。
 紫基調の重いカーテンが天井まで伸びる窓ガラスを飾っている。外に広がる景色は赤紫の暗雲。
 古い洋館の大広間、正面のまるで謁見室のような長い絨毯の先に、大柄な男が一人椅子に座っていた。
 
 



 
 
 

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 10.01.30