契 約
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 ドン!と胸を突いた鈍くて堅い衝撃。
 
 重みで下がりそうになる足をその場で堪えて、サンジは胸元に飛び込んできた人影を抱きとめた。
 
 
 
 
 痛みよりもまず最初に感じたのは焼けるような熱さ。次いでじわりと手の内に溢れ零れる液体。
 瞬時に、その致命的な深さを悟った。
 
「あ……」 
 抱きとめた腕の中で震えるのは小さい一人の少女。
 淡いブラウンの瞳は驚愕に見開かれ、細い指先が混乱したまま刃を引き抜こうとする。その両手を、サンジは剣の柄の上からそっと握って押さえた。
 怯えながら見返すその瞳の奥に正気に戻った光を認めて、やわらかく微笑む。
 少女を見つめながら強張ったその指先を一本ずつゆっくりと外せば、綺麗な瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
 
「レディ…汚しちゃって、ごめんね」
 困ったように眉を下げ、サンジは笑った。落ち着かせるよう、殊更やわらかく口元を形作る。
 サンジの胸元、黒いスーツから溢れ流れる鮮やかな赤色に、少女の白い指先が染まっていく。
 スーツに隠れたシャツの中、胸から腹にかけての肌がじわりと濡れる。
 
「なん…なんで、わたし……こんな」
 事情も分からず震える少女の指を、サンジは柔らかく握りこんだ。
「俺なら、大丈夫だから……お願いだレディ、どうか……泣かないで」
 
 意思に反して膝から力が抜け、ずるりとサンジは地面に崩れ落ちた。
 頭上で聞こえた少女の悲鳴に、悔やみながら唇を噛む。
 小さなレディ。彼女に怖い思いをさせてしまった。
 自分の失態が許せない。
 ああ小さなレディ、泣かないで。そしてできるなら今日の全てを忘れて、今夜から安らかに夢を見れますよう――…。
 
 
 彼女に罪はない。
 悪魔憑き――それを祓い、退治するのがサンジの仕事だ。
 彼女はその被害者だった。
 まだ10を越えたばかりの幼い少女。その体を操り凶行を繰り返す悪魔を体から剥ぎ取り、追い詰め、最後の一撃を与える瞬間割り込むように物陰から躍り出たのは、意識を無くしていたはずの小さな影で。
 レディに対して手が出せない自分の性分を相手が知っていたかは知らないが、明らかに自分の失態だった。
 
 
 段々と周りの音が聞こえなくなり、目の前が暗くなっていく。
 手放したくはないのに、体はどんどん冷たく重く、コントロールは失われていく。
 
(……チクショウ)
 サンジは苦々しい思いで動かなくなってきた唇を噛み締めた。
 
 死ぬのは、怖くない。
 悪魔払いという仕事柄、危険や死とは常に隣合わせの毎日だ。
 悔いがないと言えば嘘になるが、それなりの覚悟はしている。
 
 
 ……それよりも。
 
 
 霞む視界の端に、ジャリ、と地面を踏みしめる黒い革靴が見えた。
 暗い夜の闇の中、更に重い闇の気を纏わり付かせて歩むその足先。
 ガチャ、と重い金属のぶつかり合う音が微かに足音に重なる。
 
 
(………最悪だ)
 
 
 苦々しい気持ちを噛み潰しながら、サンジの意識は暗転した。
 
 
 
 
 
 
 
「ッははははは!くたばった!くたばった!」
 
 倒れた男の前に屈んで泣きじゃくる少女の背後で、どろどろに崩れかけた羽を引きずりながら悪魔が笑った。
 枯れ木のような長い手足を月のない夜空にかざす。
「オイオイ、どーするどーするよ、エクソシストの魂なんて久しぶりだな、おいしい、おいしいな!」
 ギャリギャリと歯軋りのような音を立てて悪魔は笑いながら、少女の元に倒れる金髪に近づいた。
「食べていいんだよな、いいんだったよな、コイツの魂、俺が倒したんだもんな」
 地面に広がる血溜まり。その中で泥と血に塗れて濡れた髪を掴んで頭を引き上げると、悪魔はその首筋に鼻を近づけた。
 ふんふんと嗅いで、ベロリと長い舌をひらめかせる。
 
「んーんー、まだ死んでねぇな、死なねぇかな。そうか、この首折ればいいのか、折ればいいんだな!」
 ドブ色の手が黒い服から覗くサンジの白い首筋にかかった。

 その時、悪魔の背後からパンパン、と手を叩く音がした。
 悪魔は醜悪な顔をぐるりと反転させた。 
「……?なんだお前、なんだよお前」
 いつからそこにいたのか、背後の暗闇の中一人の男が立っていた。
 男は笑いながら叩いていた手を止めると、ゆっくりと悪魔の方へ進みでてきた。
 
「……よくやってくれた」
 笑う男の目が、獣のように暗闇で光る。
 男は人間の姿をしており、胸元を開いた黒いスーツに身を包んでいた。腰に差した一振りの刀が、歩くたびに僅かに音を立てる。
 フン、と細長い鼻を蠢かせた悪魔はそこに嗅ぎ取った僅かな臭いに目を細めた。
 
「何だよ仲間か、お仲間かよ」
 嗅ぎ取った臭いは薄く、悪魔とはいえかなり底辺のランクだ。
 自分のように羽も角もないのはおそらく、人間の形を脱せないからだ。せいぜい淫魔が人間に孕ませた程度の存在だろう。
 力の差を確認すると、悪魔は再び手の中の金髪に目を戻した。
「コイツは俺が食うんだ。おこぼれなんか一欠けらもやらねぇ、やらねぇんだぞ」
 しなびた手を首に回し、ギャリリッと笑う。
「わかったらとっとと去り―――」
 
 悪魔の言葉は、不意にそこで途切れた。
「ア…―――?」
 続く言葉は音にならず、喉から血と一緒にゴブリと空気が抜けた。
 見下ろした自分の胸から、白銀の刃が突き出していた。 
 いつの間に近づいていたのか、悪魔のすぐ背後に男が立っていた。
 自分の体内を貫き流れ込む禍々しい力に、ガタガタと指先まで震え出す。
 手の中から開放された金髪が、再び地面の血溜まりに落ちた。
 
「お前はよくやったが――ちぃと、やりすぎだ」
 悪魔の耳に落ちる冷えた言葉。
「タ、たすケ……ッ」
 男は力のない存在などではなかった――自らの力を抑え隠し、人間と同じ姿を取ったままでいられる存在――そんな上級(ハイクラス)に、自分などが敵うはずがない。
 しかし既に串刺しにされた体は逃げようもない。
 
「コイツが死んだらどうすんだ」
 うっかり天上なんかに渡ってみろ、取ってくんのがめんどくせぇじゃねぇか。
 事も無げに言いながら、男は刀を返した。
「――ッ!!」
 じゅわっと溶けるように、何かを叫んだ形相のまま悪魔の体が引き裂かれた。
 ぼろぼろと腐敗した破片が地面に落ち、そしてそれもぐつぐつと煮え立ちながら消えていく。
 
 男は手にした刀を振って汚れを払うと、腰に収めた。 
 振り返れば、少女は恐怖が限界を超えたのかその場に倒れ伏している。 
 男は少女の向こう、血の海に投げ出された肢体に手を伸ばすと、その白い顔をグイと引き起こした。
 やわらかな金色の髪から、ポタポタと赤い血が伝って落ちる。
 
「おい、助けてやろうか」
 青ざめた顔、瞳は閉ざされたままで、くたりと投げ出された手足はぴくりとも動かない。
 男は顔を近づけ、その頬を容赦なく張った。
 
「……ッ」
 衝撃にゴフ、と唇から血を吐き出し、サンジのまぶたが僅かに痙攣した。
 男はその眼前に顔を近づけると、ニイ、と笑った。
 
「よう、助けてやろうか」
 低く甘い囁きに、虚ろな目を細く開いたままのサンジの唇が小さく戦慄く。
 
「あ?よく聞こえねえよ。オネガイシマス、か?」
 
 一瞬、サンジの青い目に光が宿った。
 色を失った唇がゆっくりと上下して形を作る。
 
 
『―― ク ソ ヤ ロ ウ』
 
 
 声はなく吐き捨てられた言葉。
 それを最後に、ガクリと再びサンジの首が落ちた。
 
 男は一瞬目を開いた後、小さく喉の奥で笑いをもらした。
「クッ……ハ、ハハハハッ」
 やがて抑えきれない笑い声があたりにこだまする。男は地面に沈んでいたサンジの体を両手で掬い上げると立ち上がった。
 色を失った唇に、零れる血だけがやけに赤く映える。
 男はそこに自らの唇を寄せると、その赤をべろりと肉厚の舌で舐め取った。
 鋭い犬歯を覗かせ、意識を無くしたサンジの耳元でうっそりと囁く。
「それじゃ契約と――いこうじゃねぇか?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




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