血の色に染まった夕陽がゆっくりと地平線に沈んでいく。
 もう幾度となく目の前で繰り返された光景。
 これが終われば真っ暗な世界が降りて、てっぺんに輝くのは冷えた月明かり。
 そしてそれが終わればまた、1本の線を境に上も下もただただ真っ青な無情な世界が始まる。
 はっきりと目に映る景色は、しかし決して自分を受け入れてはくれない。
 四方を絶壁に囲まれた小さな岩場の上。
 鮮やかな色たちは容赦なく、あざ笑うかのように無力で小さなこの身を削っていく。
 
 ぐるぐると繰り返されるそれらの色を、サンジは黙って瞳に映していた。
 最早膝を立てる気力もなく、だらりと投げ出した両足両腕は折れそうな程細い。
 そこに転がっているのが自分の一部だという感覚すらとうに無く、サンジは岩場に体を投げ出していた。
 
 
「綺麗ね」
 
 不意に声が聞こえた。
 
 ここに流れ着いてから途切れることなく耳を侵す波の音は麻薬のように脳を溶かし、全ての言葉を吸収してしまう。
 それが「音」ではなく、意志をもった「声」であったことに気付けたのは、同じ言葉が再び目の前で聞こえたからだ。
 
 唯一動く目玉だけをその方向に巡らせば、そこに彼女はいた。
 夕闇にぼんやりと浮かび上がる銀色の…いや、それは白のようでも青のようでもあり、ゆらゆらと輪郭を波打たせながら鮮やかな紅の世界の中にハッキリと浮かびあがって見えた。
 ゆるやかな髪は腰まで伸び、すらりと長い手足に白い顔。両目は深い紫だが、幼いサンジにもわかるほど綺麗な容姿だった。
 服は着ていないが、しかし霧のように流動する何かのせいでその細部はわからない。
 この世のものではないことは明らかだったが、それは驚くようなことでもなかった。
  
「……死んだ…のか」
 干からびて固まった唇から、わずかに漏れ聞こえた自分の声。
 自分がまだ声を発せたことに、サンジ自身驚いた。
 女性はサンジの顔を覗き込むようにして、その紅い唇をゆったり三日月型に歪ませた。
「いいえ」
 ではこの女性はなんだろう。
 まだ死んでいないのなら、目の前にいるこの人は幻なのだろうか。
 ああそうか、やっと、自分を連れに来たのか。
「…死ぬ、…の、か」
「そうね。このままだと、死ぬわね」
 優しく囁くようなその言葉に、骨同然の手足からもうほどんど残っていなかった力がじわりと抜けていくのがわかった。
 きっと自分は誰かに、そう言われるのを待っていたのかもしれない。
 諦めるしかないのだと。
 ふわりと全身を包み始めた倦怠感に、サンジはとろりと目を閉じかけた。
 
「綺麗だわ」
 女性が再び、サンジの顔を挟むようにしてうっとりと呟いた。
 全身干からびているこの身が、一体どんな風に映っているのだろうか。
 温度のない手の平に身をゆだねながら、サンジはぼんやりと目の前の女性を映した。
 
「こんなに綺麗なのに、このままだとアナタは奪われてしまう」
 歌うように言われたその言葉の意味を捉えるだけの力が、もうサンジにはなかった。
 
「死にたくないんでしょう?」
 女性の囁きに、サンジは応えはしなかった。
 もうどうでもよかった。
 瞼を閉じても突き刺す夕陽の色が眩しかったが、今はそれすらひどく心地良い。
 全身を襲う眠気にこのまま身を任せてしまおう。
 そう思った。
 けれど。
 
「このままだと、アナタを助けたあの男も死んでしまうわよ?」
 
 その言葉に、サンジの心が震えた。
「ジ…ジィ……」
 重い瞼をこじ開けて、その姿を探す。
 しかし眩しい夕焼けと微笑む女性の姿以外、視界には何も映らない。
 船の上で刃物を向けた相手を助けるために、自ら足を食った海賊。
 この岩場に打ち上げられた、もう一人の人間。
 忘れていたその存在に、サンジは唇を噛んだ。
 涙すらもう枯れてしまった目に、艶然と微笑む女性が映る。
 
「助けてあげましょうか?」
 くすくすと笑いながら女性が囁く。
 サンジは唐突に思い出した。
 幼い頃寝物語に聞いたいくつもの船乗りの話。
 自らの魂と引き換えに、全てを手に入れ全てを失った男たちの話。
 結末は忘れてしまったけれど、甘く囁くのはいつも美しい悪魔たち。
 
「俺を殺す…のか」
 女性は面白そうに笑うと、サンジの髪を撫でた。
「殺したりなんかしないわ。殺したって、魂は持っていくのは憎たらしい天の使いども」
「でも魂を…喰うんだろう」
「そうね。でも今すぐにというわけじゃないわ」
 女性の指が優しくサンジの輪郭を辿っていく。
 
「アナタはまだ若い…この目も、髪も、肌も、まだまだ綺麗になるでしょう。……――そうね、私と賭けをしましょうか」
「賭け…?」
 女性の唇が綺麗に孤を描いた。
「そう。正確には『賭けをする』という『契約』」
「……?」
「私たちとアナタたちの間で発生するのは『取引』する為の『契約』のみ。約束も信頼も、成立しえないわ」
 難しい言葉に頭が追いついていかないサンジの頭を、宥めるように女性が撫でる。
 
「まずは今、アナタの願いを叶える為に…そうね、この目を頂戴」
 女性の指がサンジの隠されていた左眼を晒した。
 
「綺麗なこの目1つで、ここからアナタたちを助けてあげる」
 
 それはまさしく悪魔の誘惑。
 けれどこの左眼を綺麗だと言われたのはサンジにとっては初めてのことだった。
 記憶に少しばかり残る母親ですら、この目を隠せと言って疎んでいた。
 生まれた土地では忌み嫌われる、悪魔の色をした緑色の目。
「とっても綺麗なエメラルドよ」
 心を読んだように女性がうたう。
 
 元からいらないこの目1つで、ジジィを助けてもらえる。
 例え自分が死んだとしても、悲しむ相手も困るものもない。
 執着する夢だって、もうただの夢だ。
 ぼんやりと薄れる思考に、女性の声だけが甘く染み渡る。
 
「残りの体と魂は、アナタ次第よ。アナタが私との賭けに勝ったら取らないでおいてあげる。
 負けたら…その時は全て戴くわ。この綺麗なもの全部、私のものよ」
「賭、け……」
 
 女性はにこりと笑って、サンジを見つめた。
 
「アナタに本当に愛した相手が出来た時、その想いを告げなさい。
 それが相手に受け入れられれば、アナタの勝ち。
 拒絶されたら、負けよ」
 
 紫色の瞳が、まっすぐサンジに入り込む。
 心臓に直接響くような言葉に、サンジは目が反らせずじっと相手を見つめた。
 
 素敵な賭けでしょう?
 どこかうっとりとした表情のまま、女性が頬を撫でた。
 促されるように、サンジはコクリと小さく頭を振った。
 
「いい子ね……契約成立よ」
 嬉しげに笑った女性の顔が、左眼に大きく映る。
 近づいてくる紅い唇。
 左瞼に落とされた冷たい感触に、そのままサンジは意識を手放した。
 
 
 
 
 
 ザザン…
 ザザザン……
 
 耳慣れた音。
 のろのろと瞼を開けば、眩しい朝日が目を差した。
 再び巡ってきた光景、まだ生きている自分に最初に感じたのは絶望だった。
 しかし視界の端に映った白い服に、はっとする。
 
「ジ……ジィ」
 腕を引きずり、這いながらその男の元へなんとかたどり着く。
 固く目を閉じた男の顔は、朝日を浴びながらピクリとも動かない。
 怖くなって、動かない体を無理やり動かしてその胸に手を伸ばした。
 服の上からじゃわからなくて、直接手の平を男の口にかざす。
 すると微かに感じる呼吸。
 
 ……まだ、生きてる。
 ほっと息を吐いたサンジの目に、再び映るものがあった。
 
 遠く遠く。
 地平線の彼方から青い海を割るように進む真っ白い。
 それは紛れもない、船の影。
 
 永遠に繰り返されていた鮮やかで非情な世界が、初めて壊された瞬間だった。
 
 
 
 それから。
 目覚めた病院のベッドの上。
 
 サンジの左眼は、既に色を失っていた。
 
 
 
 
 
 
 
泡恋
 
  To be continued…
 
 
 
 
 *2へ*

 
 
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 イメージは人魚姫です。
 次回は19才のふたりに続きます。Callingに続いてシリアスなのですが、しばしお付き合いくださればと…。
 
 06.08.18