泡恋 13
 --------------------------------------------------------------------------

 

 
 床一面を覆っていた銀色の髪がふわっと掻き消えた。
 拘束を解かれたゾロはサンジを抱えたまま抜いた刀を構えるが、その場でぎょっと目をむいた。
 
「あーああああ、残念残念ざんね〜ん〜〜〜」
 空中を彼女がくるくる回っている。いつもの余裕ある口調とは全く違う雰囲気に、サンジも呆然と宙を見た。
「あ〜私の真珠が、サファイアが黄金がぁああ」
 地団駄を踏みながら大げさに嘆く様はまるでどこかの航海士のようだ。彼女は空中をすいっと泳ぐと、サンジの頬に両手を伸ばした。
「触るな」
 その手をゾロの刀が阻む。
「ちょっとくらいいいじゃないのよケチ」
 拗ねたように唇を尖らせて、彼女は再び空中でくるりと回った。
 ゾロに腰を抱えられたまま、彼女から遠ざけるようにゾロの背に庇われている。この姿勢はなんだかちょっとその…恥かしい。
 
「あの……」
 おず、と口を開いたサンジの心を読んだのか、彼女がいつものように三日月形に唇を持ち上げた。
「なぁに?そうよ、賭けはアナタの勝ちよ」
「え…いい、の…?」
 彼女は大げさに溜息をつくと、これだから人間ってわからないわと呟いた。
「私たちの間にあるのは契約だけだって言ったでしょう。それ以外もそれ以上もないの。その真珠だって、賭けが終わるまで預かるっていう契約だった。終わったから戻った、それだけよ」
 彼女はサンジの頬をずっと流れている涙を見て、少し首を傾げた。
「でもそれだけいっぱいあるんだから、ちょっとだけ貰ってもいい?」
「駄目だ」
 子供のようなおねだりを阻んだのはまたしてもゾロだった。
「コイツのもんは一滴だってやらねぇ」
「なっ、なんでテメェが偉そうに言うんだよ!」
「そうよ!」
「うっせぇ!テメェコイツに他に取られたもんねぇだろうな!」
 
 サンジはちょっと考えて彼女を見上げてから、静かに笑った。
「いや…もうないよ」
 左目は、彼女の言う所の契約で既に遠い昔にあげてしまっている。
 あれ一つであの孤島から二人を助けてもらったなら、それは充分すぎる対価だと今でも思っている。だから、いいのだ。
 
 サンジの笑いを見て何を思ったのか、ゾロは難しい顔をしてむっつりと黙り込んだ。
 彼女はサンジに向かって、赤い唇で猫のように笑った。
 
「それじゃもう次の契約に行かないと。またどこかで会えるといいわね」
 そしてそのまま、空気に溶けるようにふっと掻き消えた。
 あまりにもあっさりと、そして突然に。
 
 後に残されたのはぐちゃぐちゃの倉庫と、なんだかボロボロになって立ち尽くしたままの二人と。
「なんだったんだありゃ…」
「さぁ……」
 掻き乱すだけ掻き乱してあっという間に去っていく。まるで嵐のようだった。
 そういえば結局名前も知らないままだった。
 レディとはいえもう二度と会うのはご免だけれど、それでもサンジの左眼は彼女の懐で時折愛でられているに違いない。
 そう思うと少しだけくすぐったいような、不思議な気がした。
 
 
「おおーい!島が見えたぞーー!!」
 突然のウソップの叫びに、サンジはようやく我に返った。
 ゾロの手を振り解き、あたふたとベルトを締めてぐしゃぐしゃになったシャツを羽織る。
 その途中でふらついた腰を後ろからゾロが支えた。なんでもないその仕草が今のサンジにはとても恥かしい。
 思わず蹴りを入れてゾロを沈め、倉庫の扉を開けた途端、サンジは眩しさに立ちすくんだ。
 

 嵐は通り過ぎ、抜けるように真っ青な空が広がっていた。太陽が濡れた甲板をきらきらと照らしている。
 サンジの後ろから出てきたゾロも、手を額にかざしてしばし立ち止まる。
 
「見えたわ!あれが最後の島よ」
 太陽に近い場所で、力強くナミが拳を振り上げるのが見えた。
 その向こう、遠く青い海の上に浮かぶ島影にサンジは目を細めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「なんですってぇ!?」
「む、昔一度だけ来た事があるだよ…そん時にかっこええなぁ思ぅてな、ちょっくら流行のすたいるをば真似をだね…うぐぐぐ」
「ナミ!一般人に乱暴はっ」
 
 今までの島の中で一番緑豊富なこの無人島には、一人の大男がいた。
 黒い十字を背負い、小船で漁をしていたその男はしかし、鷹の目ではなかった。
 ナミの締め上げから解放されてゲホゲホむせているこの男はこの海域に集まる珍しい魚を捕って暮らしているという。
「ほれこのようにだね、十字架の両脇に沢山干物ぶら下げられて便利なわけ…うぐぐぐぐ」
「ナミー!」
 あたふたするチョッパーと、自分より身の丈のある男を締め上げるナミ。
 その光景をメリー号から見下ろして、サンジは笑って鼻をすすった。
 
 嵐も鷹の目も多分、彼女の仕業だったのだろう。
 何もかもしてやられたなぁと、今ではもう笑うしかない。
 小さく息を吐いて手すりに持たれた時、ふっと頭上に陰が落ちた。
 
「サンジ、悲しいのか?」
 手すりに登ったルフィがサンジを覗き込んでいる。
 彼女に預けていたサンジの涙。本来ならとうに流し終わっているはずのそれらが、ずっと溜め込まれて溜め込まれて、今一気に手元に返ってきた。
 お陰で島影が見えてからずっと、サンジの目からは涙が溢れて止まらず一人大洪水状態だ。
 ナミさんとウソップには不審がられ、チョッパーには後で診察を約束されてしまったが、理由なんて言えるわけもない。
 ゾロからはずっと問い詰めてやる的な不穏なオーラが感じられるのだが、島に着いたどさくさでなんとかそれをかわして逃げた。
 首を横に振ったサンジを見て、ルフィは突然太陽のように笑った。
 
「じゃあ嬉しいんだな!よかったな!」 
 思わぬその言葉にサンジはしばしぽかんとした。ルフィが凄いと思うのは、いつもこういう時だ。
 ゆるゆると笑いが込みあがってくる。
「そう…だな、よかったな…」
 へへ、と笑って赤くなった鼻をこすったサンジの腕が、グイと唐突に引っ張られた。
 見れば怖い顔をしたゾロがサンジの腕を取っている。え、え、と思う間に笑う船長の前から引きずるようにして引き剥がされ、連れてこられたのは後方甲板。
「そんな顔所構わず晒してんじゃねぇ」
 突然壁に体を押し付けられて、目の前にはどこか苛立ったようなゾロの顔。
 涙を拭う間もなく呆然としたサンジの口を、ゾロが塞いだ。
 温く柔らかい侵略を、サンジはとろりと口を開いて受け入れる。
 
(今度はちゃんとこのキスの意味も聞いてみよう)
 ほのかに塩辛いキスの合間にそんなことを考えながら、サンジは小さく笑った。
 
 

 
 
 
*14へ*
 
 
 
 --------------------------------------------------------------------------
 残すは定番のにゃんにゃん仲直りのみです…!
 
 07.10.27