Calling 4
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 その日からゾロは昼前と夕方の二回、毎日レストランに顔を出すようになった。
「俺知ってますよ。あの人海賊狩りのゾロでしょう!」
 凄いなぁ、噂通りの姿だからすぐわかりましたよ、と大きな島から渡ってきたばかりの新入りが感動したような目を店内に向けた。
 ちなみにこのレストランは料理を作るコックの姿が客からも見られるようにと、厨房とフロアの間には長いカウンターの仕切りがあるだけである。
 何も言わない他の従業員も、やはり珍しい客が気になるのかちらちらと目線が店の隅に飛んでいる。
 客である船乗りたちの中には、同じようにゾロの噂を聞いていたものも少なくないようだった。
「オーナーの知り合いなんですか?」 
「ん、まぁな」
 手を動かしながら、曖昧に頷く。
 ゾロがそんな有名になっているとは知らなかった。
 ますます自分の存在が矮小に感じられて、サンジの声は自然と小さくなる。
 目の前のソースに集中するふりをしながら、その実サンジの心は波風たったまま一向に落ち着いていなかった。
 厨房にこもりきりのサンジは特にゾロと接する時間はない。
 しかしゾロに出される料理にはつい力が入ってしまう。メニューにはない一品をちょいと皿の上に乗っけてやったりして、気づいたフロア担当に微笑まれたりもした。
 
 ゾロはあれから特に、何も言ってこない。
 ただじっと厨房に立つサンジを見ている。
 何かを見極めようとするように、ずっとチリチリと焼けるような視線が追いかけてくるのを感じていた。
 だからサンジは殊のほか明るく、活き活きと振舞った。
 従業員からすれば、まるで旧友に会って浮かれているように見えただろう。
 
 ここで俺はこんなにも幸せだ。
 何も考えることはない。
 笑って送り出してやるから、また広い海へ出ればいい。
 そう願いをこめて、サンジは笑った。
 
 
 
 夕闇に空が染まり始める頃、ゾロは町の方へ帰って行く。
 その背中を、サンジは手を止めてぼんやりと見送った。
 入れ替わりに地元の連中が店に数人入ってくる。その開けた扉から、冷たい風が店内に入り込んできた。
 窓の外、低く垂れ込める不穏な灰色の雲を風が急速に運んでいる。
 今晩は嵐が来るってよ。
 納戸の隙間、ふさいどいて正解だったな。
 顔を付き合わせる男たちの会話が、耳を掠めて流れた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 灯りを落とし、サンジは一人静まり返った店内を見渡した。
 夜のはじめに振り出した雨は強さを増して、レストランの窓ガラスをしきりに叩いている。
 暗いフロアにその音だけがカツカツと響く。
 
 毎日見慣れて、もはや感慨深さもなく擦り切れた場所。
 あえて、忘れていた。
 思い出さないように、考えないようにしていたのだ。今まで。
 大きく息を吸い込んで、サンジはそっと目を閉じた。
 
 瞼の裏に、今でもやわらかく残る光景。
 白い髭を蓄えた、大きな老人。
 幼い自分の目線では、彼の顔は常に背伸びして見上げねばならなかった。
 だから記憶に残るのは、ゼフの顔よりもその大きくて節くれだった包丁を握る手の方が多い。
 彼と自分、そしてたくさんの優しい人々。
 使い込まれた古いキッチン。
 その傷のひとつひとつも、覚えている。
 サンジはゆっくりテーブルを撫でた。
 冷たい木肌は、長年の暖かさを持って、サンジの手を押し返した。
 
 サンジは目を開けると、やわらかく笑った。
 今までのことと。
 これからのことと。
 
 ありがとう、と小さく呟いてそしてサンジは懐かしいその場所に背を向けた。
 
 
 二階に続く階段に、重い一歩を踏み出す。
 そこにギンが、待っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「サンジさん」
 部屋を開けると、ランプを灯したベッドサイドで嬉しそうにギンが立ち上がった。
「…ギン」
 サンジは静かに近寄ってきた相手の肩に手を伸ばした。
 ギンが驚いたように身を強張らせる。
 サンジから積極的に触れるのは、あの行為以外ではそうないことだ。
 小さく苦笑して、そのままサンジはその頬に顔を寄せた。
「サン……!」
 
 ギンにキスをしたのは、これが初めてだ。
 勿論ギンからされたこともない。
 愛を込めた口へのキスなどできないが、感謝をもって、サンジはその頬に唇を押し当てた。
 それにきっと、これで充分。
 
 驚きに目を開いていたギンが、ハッとサンジの後ろに目を走らせた。
 素早い動作でサンジの体を突き離し、背にかばうように身構える。
 開いたままだった扉の向こうには、驚いたような顔で廊下に立つ、ゾロがいた。
 
  
「こういうことだから…俺はここを、離れる気はないんだ」
 ゆっくりとギンの後ろから進み出て、サンジはにこりと笑うとギンの首に手を回してゾロを見た。
「さ、サンジさんっ!?」
 しなやかにもたれかかるサンジをどう受け止めていいかわからないらしい。ギンが真っ赤になってうろたえる。
 サンジは笑みを作ったままゾロを見上げた。
 暗がりに潜んでいたゾロは固い表情のままサンジとギンを見比べ、やがて意を決したようにサンジを見返した。
「わかった……明日の朝一の定期便で、俺はこの島を出る」
 感情の読み取れない、低い声だった。
 もう来ることもないだろう。
 そう言ってくるりときびすを返したその背が、ふと止まった。
「……てめぇのメシがもう一度食えて、よかった」
 そのままゾロは振り返ることもなく、階段を下りるブーツの重い足音が遠ざかって行く。
 サンジは黙ってその音を聞いていた。
 
 これでいい。
 大きくひとつ、息を吐いて。
 すがすがしく晴れた気持ちで、サンジはギンから手を離した。
 そしてその正面に回ると、今度は青白いその顔に笑いかけた。
 
「てめぇとも、今日でさよならだ」
 
 ギンの落ち窪んだ目が、驚きに開かれた。その紫がかった唇が、ぶるぶると震える。
「…どういうことだ…今の野郎と…一緒に行くのか!?」
「違う」
 静かにきっぱり、サンジは首を振った。
 ギンはギラギラと光を増してきた目で、サンジを睨みつけた。
「俺が…俺がまたこの町を壊したら…町も、アンタのレストランも…どうなると思ってるんだ」
 低い脅しの声。
 叩きつける雨の音が、小さな部屋を揺らす。
 暗い殺気を放ち始めた海賊に、怯むことなくサンジは薄く笑った。
「……そんなこと、てめぇはしねぇだろう?」
 優しい目で言われ、虚をつかれたようにギンが唇を噛む。
「それにもう、レストランは手放した。従業員の皆にも話して…すべて、任せた」
 サンジは穏やかにギンを見る。
「だからもう、俺に守るものは何もない。お前に守ってもらうものも……もう、ないんだ」
「…サンジさん!」
 悲壮とも取れる声で、ギンが叫んだ。
 サンジはギンから間合いを取るように数歩、後退さった。
 そして柔らかな表情を一転させ、すっと真剣な目で相手を見据える。
「俺たちの決着をつけようか…ギン」
「サンジさん…」
「今まで……ありがとよ」
 
 
 うなだれていた男が、すっと顔を上げた。
 ぎらりと暗い炎の宿った瞳。
 生気のない手が、懐から黒い鉄棒のようなものを2本取り出した。
 海賊の顔をサンジの前に現したギンが、腰を落として低く構える。
 サンジも両足に力を込めて、ギンと対峙した。
「お願いだ、考え直してくれ…俺はサンジさんを傷つけたくないんだ……!」
 そう叫ぶギンを、サンジはハッと鼻で笑った。
 口の端を不敵に歪ませる。
「そういうことは、俺を倒してから言いやがれ」
 
 始まりの合図を告げるように、雷鳴が白く空を割った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ***
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 一晩島を叩き続けていた雨は、いたるところにぬかるみを作っている。
 雨は収まったが、風はまだ強い。
 低い灰色の雲が流れているせいで、明け方だというのにまだ日の射す気配もみえない。
 薄暗い道、跳ね上がる土砂がスーツの足元を濡らすのも構わず、サンジはもつれる足を叱咤するように駆けていた。
 口の中に湧き上がる血を、途中何度か吐き出しては顔を上げる。
 スーツの上着はなく、雨に濡れた白いシャツは赤黒いシミでぐしゃぐしゃで、ところどころ破けている。
 黒のボトムも同様で、サンジ自身の肌にも血を流したままの傷がいくつもあった。
 町人が見れば目を剥く有様だったが、嵐の通り過ぎた後の町はとても静かで、時間が早いせいもあってか見咎める住人は誰一人いなかった。
 路上には何処かから剥がれ落ちた木材や、吹き飛ばされたバケツみたいなものがたくさん転がっている。
 固く閉ざされた窓の下、強い風に髪をなぶられながらサンジは走った。
 
 呼吸するたびにひきつれる肺や、熱を持ったようにジンジンとする腕や足の痛みなど、今はどうでもよかった。
 
 強くなる。
 いつかもう一度、ゾロの隣に並んで立てるように。
 その為に自分も海に出るのだ。
 
 
 その為に、さよならを。
 ゾロにきちんと、さよならを言いたかった。
 
 
 できるなら再びどこかで会えることを願って。
 その時までにきっと、自分はもう一度強くなっていると誓うから。
 だから。
 
 
 
 
 その為に、最後にゾロの目を覚えておきたかった。
 
 
 
 
  
 町を抜けると、急に視界が開ける。
 海だ。
 大小いくつもの漁船や商船が繋がれて揺れる広い港を見回して、サンジは焦る気持ちそのままに定期便の停泊場所へと急いだ。
 しかしいつものその場所に、目当ての船の姿が見えない。
 近くの島から島を繋ぐ定期便はそこらの漁船よりはるかに大きく、沢山の荷と人を運んで日に3回運航している。
 朝一の便の出航予定は八時。まだ朝の七時半だ。今ならまだ貨物の荷運びをしているはずだ。
 ポケットにいつも持ち歩いていた懐中時計を確認して、サンジは大型船専用の桟橋へと駆けた。
 辺りを見回して船を探す。
 いつもなら見かける漁師たちの姿も、嵐の後すぐに船を出せないせいか今朝は一人も見当たらない。
 がらんとした港を、サンジは走った。
 
 すると港の傍に建っている管理小屋から、サンジの姿を見つけたのだろう、一人の男が慌てふためいて防波堤を駆け下りてきた。
「おいサンジ!どうしたんだこの怪我は」
 全身傷だらけの姿に驚くその男の腕を、サンジは縋りつくように掴まえた。
 心臓が痛いくらいに跳ねている。
「…ここの船は…まだ出発前だよな?定期便は……」
 弾ませた息で切れ切れに問うサンジの必死な様子に、レストランの馴染みでもあるその男は驚きながらも口を開いた。
「て、定期便なら予定を繰り上げてついさっき出航したよ。なんでも積荷が雨にやられて、早く届けないといけなくなったとか……」
 男の話を途中まで聞いて、サンジは顔を上げた。
「おい!そんな怪我でどこへ……」
 男の静止を振り切って桟橋を走る。
 
 広く遠く、渦巻く海。
 暗い空を覆う雲は、早足に上空を流れていく。
 嵐の抜けた広い海。
 途方もなく広いそのがらんとした場所を前に、サンジは足を止めた。
 
「……っ」
 
 ぐるり周囲を見回しても、既にそれらしい船の影は見えない。
 寄せては返す荒々しさを残した暗い水のしぶきが、冷たくサンジの体を叩くだけだ。
 サンジは呆然と、その場に膝をついた。
 酸素の足りない頭がガンガンと鳴り響く。
 全身が熱いのに、肌の表面だけまるで自分のものではないかのように冷えている。
 サンジは遠く暗い水平線に向かって顔を上げた。
 
 
 ゾロと、もう会えない。
 その事実に、その重大さに、サンジは初めて愕然となった。
 そして、気がついた。
 
 
 
 くるくる回る金色の風見鶏。
 ジジィの店の為。
 従業員の為。
 だってそこはサンジの大切な。
 
 
 
 ――――いや、違う。
 
 
 
 
 
 あの場所がなくなっちまったら。
 
 
 
 
 
『アレがありゃ港からこの家がすぐわかる』
 
 だから目印にするのだと。
 そう言ってにかりと笑った泥だらけの笑顔。
 記憶の中でも色褪せない、若草色。
 
 
 
 
 
 ―――あの迷子が、帰ってこれなくなっちまうから。
 
 
 
 
 
「……ぁ…」
 目を見開いたまま小さく、掠れた声をサンジは漏らした。
 
 
 
 
 
 
 そうだ。
 店を守る為じゃない。
 従業員や町の皆の為に、あの場所を守っていたわけじゃない。
 
 
 
 待ってた。
 そうずっと。
 
 
 
 
 
 俺は待ってたんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―――――ゾロ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 サンジは崩れるようにその場に膝をついた。
 嵐が運んできた様々なガラクタが転がる道の上に手を付いて、呆然と海を見る。
 まだ波の高い黒々とした海が、見渡す限りの水平線が。
 遠く遠く。どこかの世界の果てに続いている。
 その視界が滲んだ。
 
 
 海。
 
 いつもそこにあり、いつもサンジの目を眩ませるその存在。
 毎日見ていた。
 痛いほど目を焼いて、そしていつしかその美しさ自体を見失った。
 
 
 ふっ、と掠れた呼吸が漏れた。
 自分の喉が震えているのを理解すると同時に、それは続けて笑い声に変わる。
 
「っは、はは…ッ」
 止まらない叫びの隙間から、ぼたぼたと何かが零れていく。
 頬を濡らすそれは、潮風に吹かれてすぐに冷たく変わっていく。
 ザリザリと固い床を這う指の先に、ふと何かがあたった。
 
 どこかから飛んできたのだろう角材の破片。
 そしてそこに伸びる無様な自分の、白い手。
 幾度も傷つけた柔らかなその傷跡。
 
 
 サンジは木片を右手でたぐり寄せると、ぐっと握り締めた。
 
 
 
 馬鹿だ。
 あんなにも焦がれて、夢見ていたゾロとの約束。
 それをただの傷跡にして貶めていたのは自分だ。
 ただの思い出にして、勝手に縋り付いて甘えていた。
 
 
 なんて、馬鹿だ。
 
 
 溢れる涙の視界に、ようやく差し込んできたが朝日が小さく輝く。
 
 サンジは木片を痛いほど強く握り締めると、その手を大きく振り上げた。
 
 
「あ…ぁああああぁッ」
 
 
 そしてゾロとの約束が残る左手首に。
 
 
 
 その眩しい傷跡目掛けて。
 
 
 
 
 
 思い切り振り下ろした。
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ザクリと鈍い、肉を突く衝撃が走った。
 次いでボタボタッ、とまるで涙のように一瞬暖かさを残した雫が冷たい肌に降り注ぐ。
 
 
「あ………」
 真っ赤に濡れた左手首。
 溢れた真紅の液体が、ボタボタと石の床に滴り落ちて吸い込まれていく。
「……ッ」
 小さな呻き声が、サンジの背中から聞こえた。
 
 サンジの両腕は、そのすぐ上から重なった別の男の腕によって取り押さえられていた。
 木片を握る右手首を抑える太い腕。
 そしてその切っ先は、左手首に重なるその男の腕に深々と突き刺さっていた。
 
 
 走ってきたばかりのような荒い呼吸が首筋にひっきりなしに掛かっている。
 ぴたりと合わさった背中から、相手の激しい心臓の音が体を打つ。
 カラン、と音を立てて右手から木片が落ちた。
 
 
「あ……」
 信じられない光景に、そしてここにはもういるはずのない相手の気配に、サンジは呆然と身を震わせた。
 背後の男が、大きく息を吐いた。
「てめぇは……」
 そして苦々しく耳元に落ちた男の低い声に、サンジの目から涙が溢れた。
「ゾロ………!」
 
  
 振り向こうとするサンジを、まるで逃がさないとでもいうようにゾロの太い腕が抱きしめる。
 肌に絡みつくのは、ゾロの血。
 熱いその液体が、まるであの時の約束のようにサンジの傷跡に降り注ぐ。
 
 
「…ゾ、……なん、…なんで……」
 壊れたように涙を流すサンジの顔を、ゾロの手が持ち上げる。
 覗きこんだ深い目は、まるで痛いのを我慢するようにしかめられた。
 
 
「そんな目をして諦めるぐれぇなら」
 
 
 
 
 
「もう一度俺の手を掴めばいいじゃねぇか…!」
 
 
 
 
 
 目を見開くサンジの震える腕を、ゾロが掴んだ。
 そして向き合わせて正面から抱きしめられる。
 
 
「でなけりゃ俺が何度でも掴んでやる…!」
 
 
 言葉とともに熱い吐息を持ったゾロの唇が重ね合わされて、サンジはぼやける瞼を閉じた。
 
 
 自分の涙の跡が、ひどく冷たい。
 けれど覆い隠すように合わさったゾロの体温の暖かさに、再び涙が溢れた。
 
 
「待っ…ずっと、…待ってた、テメェを」
 熱い呼吸の合間からこぼれる囁きは、一つ残らずゾロに吸い込まれた。
 恐る恐るゾロの背に伸ばした腕。
 辿るようにそっと回せば、それでいいんだと言うようにゾロの腕がきつくサンジの冷えた背中を抱えこんだ。
 
 
 
 
 雲を割った朝日が、きらきらと静かに海に降り注ぎはじめていた。
 
 





*5へ*









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この桟橋のラストシーンを書きたいがために話を膨らませてきたようなものですが…なんだかとってもメロドラマ?
え、乙女サンジ…?

06.02.16