Calling 5 ------------------------------------------------------------------------------- |
ゾロの雨だか汗だかでぐしゃぐしゃになったシャツにぐずる鼻を押し付けて、サンジは笑った。 ゾロの左腕から溢れる血と、それによって染まった自分の左手首。 まるであの別れの日のようだ。 あの約束の傷跡。 (……結局、何にも変わってねぇんだな) お互い血や汗でぐちゃぐちゃのまま、きつく抱きしめあって。 図体ばかり成長しても、中身は全力で喧嘩に明け暮れた幼い頃と変わっていない。 虚勢を張っていた自分が馬鹿みたいで、サンジはもう一度穏やかに笑った。 それから。 救急箱片手にサンジの後をあたふたと追いかけてきた管理小屋の男にふたりはボロボロの姿を発見され、ゾロはその場で応急処置をされた。 お互いに血まみれで大変な有様だったので、町が起き出す前に礼を言ってレストランに戻った。 ゾロは相変わらず狂った方向感覚で歩き始めたので、しょうがなくサンジがその手を取った。 繋いだ体温は、照れも恥かしさも通り越して、不思議と穏やかな海のようにサンジを落ち着かせた。 「…よし」 元々そんなに多くもない私物を詰めた革鞄を手に、サンジは立ち上がった。 8年間過ごした部屋。階段を降りて、長年の居場所であった厨房と店内をぐるりと見回す。 静かにゆっくり息を吐いて、サンジは小さく礼をした。 そして背を向けると、外への扉を開けた。 ふわりと風が頬をなでる。眩しい日差しにそっと目を細める。 血や泥の入り混じった今朝方までの争そいの跡は、全て雨が洗い流してくれたようだ。 数時間前そこに倒れ臥したギンの姿は、既になかった。 変わりによく晴れた青空の下、サンジを振り返った緑頭。 やはり小さな手荷物を片手に持ったゾロと、濡れた草を踏んで丘を上がる。 眼下に見渡す青い海。 そして静かに眠る岩の下。 「……行ってくるぜ、クソジジィ」 不敵に笑ったサンジに、ゾロも小さく目礼をした。 *** ルフィという男の船に乗った。 乗ったというか、乗せられた。 ゾロは最強の相手を探し、サンジは幻の海を探し。 同じく何かを目指す仲間たちと、そこから始まった冒険の日々。 新しい風が常に吹いている、そんな感じの船だった。 ゾロとふたりで見る海は、もう目を焼くことはない。 その代わり強く、激しく、時には命そのものを飲み込もうとするようにすぐ身近に在った。 「ふー……」 まるっと白いファンシーな羊頭の船首にもたれて、サンジは煙を夕闇にくゆらせた。 船は先ほど新しい島についたばかりで、サンジの愛して止まない航海士が今港に停泊の許可を取りに行っている。 久々の陸地に上陸の準備をしながら浮き足立つクルーを端目に、一通りキッチンを片し終えたサンジはぼんやりと赤く沈む島影を見て溜息をついた。 船での生活は新しいことだらけで、毎日息つく暇もなく働きまわっている。 レストランにいた時とは違う共同生活の中に生まれる作業――掃除や洗濯、船番など、また大食いの船長をはじめクルーたちの為に食事をあれこれ考える行為。 どれを取ってもとても楽しいものばかりだ。 けれど。 「……」 ふう、とサンジは再び息をついた。 こうして体が休んだ時、いや料理や風呂や買出しの最中であっても、気付けば頭を占めるのはゾロのことばかりだ。 足りない。 一言で言えば、それだ。 サンジの幼馴染。自分を島から連れ出してくれた…いや、出たいのだとサンジに気づかせた存在。 今では同じ船に乗って夢を目指す仲間になったが、ゾロの存在はサンジにとってとても深いものだ。 あの時港で重ねられたゾロの腕。 サンジの腕の倍は筋肉のついた、日焼けして太い腕だった。 そして抱き込まれた厚い胸板や、たくましい背中。 思い出してはゾクリと体が震える。 ぐ、と胸のあたりが切なくなって、もう一度あの腕に触れてみたくてたまらなくなる。 船には麗しい女性が二人もいるし、勿論彼女たちを抱きしめたらどんなに幸せかとも思うのだが、今自分が一番欲しいのはゾロのぬくもりだった。 あの体温の高そうな胸の中に抱き込まれたら。 サンジはつまり、そういう意味でゾロのことが好きだった。 その気持ちはいつから始まったのかはわからない。はっきりと性欲として自覚したのは最近だが、幼い頃血を交わして約束したあの瞬間から、きっと心に育ち始めていた感情なのだろう。 最近ゾロは船に馬鹿でかい錘を持ち込んで、それでせっせと見てるだけで暑苦しいとクルーに評判のトレーニングをしている。 マリモだ筋肉だと口では罵りつつ、キッチンの窓からよくその背中を見てはぼんやりと作業がおろそかになっていることもしばしばあった。 そしてクルーにかこつけてあれこれとゾロの世話を――つまり他の仲間にもしてるからお前もついでにな、みたいな感じでそりゃもうさりげなく自然にかいがいしく焼いては、とてつもなく幸せな気分にひたっていた。 ―――けれど。 この気持ちはゾロに見せてはいけないものだったのだ。 あれはいつのことだったか。トレーニングの後、汗の滴る筋肉についつい行ってしまう視線をなんとかひきはがして、からかい口調のまま飲み物を差し入れてやった時だ。 「ありがてぇ」 言いつつ受け取ったゾロの胸には、袈裟懸けに走る大きな傷がある。 これがサンジの知らないゾロの8年間を思い知らされる一番の跡で、サンジはその傷を見ながら一体ゾロはどんな道を歩んでいたのだろうかとぼんやり考えを飛ばした。 そしてつい、舐めたらしょっぱそうだなぁ、なんて、いつもの癖で妄想して、とろりと笑ってしまったのだ。 「……オイ」 苛立ったような低いゾロの声。 空になったグラスを胸元に突き返されて、サンジは我に帰った。 見ればゾロは眉間に皺を寄せ、怒ったような鋭い視線でサンジを睨みつけている。 「あ…ワリ、」 慌ててサンジが弁明しようとした途端、ゾロはついっと顔を反らし床に置いていた錘を持ち上げると、そのままサンジの視界から消えるように格納庫に入っていってしまった。 そこではじめて、サンジは気づいたのだ。 ゾロはずっと幼馴染、しかも男の自分にべたべたされて迷惑だったのだと。 あの時一度きり交わしたキス。そして体温だけがいつまでも忘れられない。 誰かと暖めあったのは、幼い頃から考えてもあれが初めてだったかもしれない。 ゼフはサンジの唯一の家族で大事に思っていてくれただろうが、しかし幼いサンジを抱きしめたことなんてなかった。 ゾロと別れ、ゼフが死んでギンと会ってからは、そういった意味で心を許しあうような相手もいなかった。 サンジは諦めるように頭を緩く振った。 確かに港で一度、自分たちはキスをした。 でもあれはなんだか盛り上がってしまって、雰囲気に流されてしてしまったに過ぎない。 (――そうだよな) 吐き出した煙は気持ちと同じくふらふらと宙に頼りなく散って行く。 ゾロは馴染みの俺に会いに来ただけであって、別にこんなじっとりした感情があるわけではないのだ。 約束事には昔から義理堅い性格だったし。 (ただ迎えに来ただけなのに、相手の男に勝手に盛り上がられちゃ、そりゃ気持ち悪いよなぁ……) いつのまにか吸い口付近にまで迫っていた煙草を、サンジは携帯の灰皿でぎゅっともみ消した。 (浮かれてたんだな。俺。) 助けて欲しいとか、そんなこと考えたことはなかった。 自分の力でこれからもずっと、あの店を支えにしてやっていくつもりだった。 でもゾロが目の前に現れて、一気に自分の欲しかったもの、我慢してたもの、あえて忘れたその感情が勝手に溢れだしてしまったのだ。 ゾロがサンジのことをどう見ているのかなんて、考えてもみなかった。 ゾロの誘いを断る為に、自分はギンとキスまでしてみせたのだ。 そんなオカマ野郎にいそいそ世話を焼かれてるなんて、ゾロにとったらいい迷惑だろう。 しかし腐っても幼馴染、しかも自分が連れ出した身であるのだからむげにも出来なかったに違いない。 深い溜息をついてサンジはうなだれた。 視界に映ったのほほんと笑った羊の顔が、どこか太平楽な船長を思い出させてちょっと笑う。 流れ落ちる前髪を掻き混ぜたサンジは、ぼんやりと左手首に残る傷跡に目をとめた。 『どこにいても、いつでもいっしょ』 幼いゾロがそう言って交わした傷。 今でもサンジがこの傷のことを覚えているなんて、ゾロは思ってないだろう。 袖口から覗くそこに、サンジは小さく唇を寄せた。 ふと。 それはほんとにふとした衝動だった。 辛いとき、幾度となく傷つけ舐めたあの甘い味。 それは寂しいサンジの心をゆっくりと満たし、落ち着けた媚薬。 右手をスーツのポケットに入れて、探り当てた携帯用の折りたたみナイフを取り出す。 そしてうっすらと色の違うその傷跡に添うように、刃先をひたりと押し当てた。 |
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