俺専食堂
会社から歩いて5分の好立地にその食堂はあった。
ビルの立ち並ぶオフィス街の一つ路地裏、ビルとビルの隙間に建てられたような、けれど実際には最後まで踏ん張った下町の名残だ。
鰻の寝床のように奥に長い二階建て。
昔老夫婦が細々と営んでいた飯屋は、今一人の若者が切り盛りしている。
ゾロがその食堂に立ち寄ったのは偶然だった。
オフィス街に多々ある店舗を食べ歩き、その内どの店の味にも飽きて、ついでに飯を食うのも面倒臭くなってきた頃、ふと美味そうな匂いにつられて路地に迷い込み辿り着いたのがこの店だった。
「らっしゃい!」
暖簾を潜れば、見た目よりさらに狭い店内はむさ苦しい男ばかりごった返していた。
お代わりだのお水ちょーだいだの声が飛び交う喧騒の中で、一際目立ったのがカウンター向こうでキリキリ動く若い男。
「水なら勝手に入れろ!お代わりはこっちまで来い!」
接客も何もあったものじゃない。
あまりに騒がしいからこのまま出て行こうと後退りするゾロの後ろから、またどやどやと客が入ってきて結局押されてしまった。
「あんた初めてか?」
勝手がわからず突っ立ったゾロに、頬袋を一杯に膨らませた男が座ったまま声を掛けた。
「そこにご飯茶碗伏せてあるだろ。あれ持ってってよそって貰って、後は戸棚に料理が入ってるから
好きなだけ自分で取って食うといいよ。あ、先に場所押さえとかないと立ち食いになるぜ。
相席は当たり前だ。あ、オレの前で食う?」
何故かてきぱきと仕切られて取り合えず前の席に荷物を置くと、トレイを持ってカウンター前の列に並んだ。
網戸の嵌った戸棚を開けて、皆適当に小鉢を載せている。
どれもどこかで見たような、けれど実際には滅多に口にしないような惣菜ばかりだ。
メインに魚といくつかの和え物を適当に入れて、列のまま移動する。
カウンターの中で金髪に割烹着と言う実にアンマッチながら妙にしっくりくる若い男が、咥え煙草でご飯をよそって味噌汁を添えていた。
「ほい、今日もいっぱい食えよ。」
「緑モンの小鉢をもう一品足せ。」
「もっとバランスを考えて食え。」
一人ひとりにあーだこーだと声を掛けながら、手際よくよそっていく。
ゾロが目の前に来ると、おっと目を丸くして見せた。
「新顔だな、いらっしゃい。たんと食えよ。」
そう言って何も言わずに大盛りをよそってくれて、ゾロはどこか狐に化かされた気分で席に戻った。
その飯を一口食って、ゾロは開眼する。
食い物って、こんなに美味かったのか。
食べ始めれば止まらない。
あれもこれもと勝手に箸が動き口が求める。
最初に取った小鉢だけじゃ足らなくて、お代わりをしてもいいかと改めて顔を上げた。
さっき色々と親切に教えてくれた男はもうすでにおらず、別の男が黙々と食べていた。
それでもゾロの無言の視線を悟ってくれたのだろう。
やけに鼻の長い縮れ毛の男はああ、と声を上げて箸を持ったまま戸棚を指差した。
「足らなきゃ勝手に小鉢取ってくればいいぜ。皿の横に料金が書いてあるだろ。後であれを計算して
金を置いていけばいい。」
「自分で勘定するのか?」
さすがに驚いて声を出した。
「ああ、なんせ店主は忙しいからなあ。ここは完璧セルフの店だぜ。料理を選ぶのも運ぶのも、
勘定するのも全部客。あいつはずっと美味い飯を作り続けてんだ。」
そう言って笑う男の後ろで、食事を終えたらしいサラリーマン達が、それぞれ金をレジの中に支払っている。
・・・勝手にレジを、打ってる?
さすがに目が点になったゾロの前を、客達は引っ切り無しに行き交っていた。
信じられねえ・・・
このせちがらいご時勢に、こんな店ってありなのか。
セルフサービスはともかくとして、料金計算客任せ。
レジも勝手に開かれて金入れられて・・・さっと盗まれたらどうする気なんだ。
それ以前に誤魔化しとかネコババとか・・・最終的に計算が合わねえだろうが。
考え出したら気になってしょうがない。
けれどそれよりなにより、飯の美味さが気に入った。
どれもなんてことないメニューなのに、喉の奥が引っ張るようにものすごい勢いで平らげてしまった。
しかも安い。
自分のペースでできるから、早い。
とりあえず満腹になってひと心地付いた後、改めて小鉢を見て料金計算をすれば、なるほどほとんど定額×皿数で大よその計算はできるようになっていた。
・・・けどこれって、かなり適当なんじゃあ・・・
店の先行きを勝手に案じながら、ゾロはレジの横に札だけを置いてその店を後にした。
それ以来、毎日毎日通っている。
メニューに代わり映えがある訳でもない、特別凝った料理でもないのに何故か毎日食べても飽きなかった。
昼休みになると足早に店に向かい、暖簾を潜ると何故かほっとする。
いつも同じ時間にテーブルに着いている男の前に鞄を置いて、適当に今日の料理を見繕い、黙々と食った。
食っているうちに向かいの男は入れ替わっていて、鼻の長いのはあれこれよく話しかけてくるから適当に相槌を打つ。
そうして食い終わったら自分で勘定してレジの横に置いて帰った。
なんとなく釣りを貰うのは躊躇われて、いつも切りのいい札払いだ。
暖簾を潜る前に振り向けば、白い湯気の向こうでキンキン光る頭が忙しなく動き回っている。
勘定を終えて出る時に声の一つも掛けられない事が寂しいと、ふと思ってしまった。
なんとなく匂いにつられて店に入っていたから、店の名前が「薔薇亭」だってことにも長い間気付かなかった。
毎日決まった時間に通ってくる常連が多くて、言葉を交わさずとも大概顔見知りになる。
最初から最後まで陣取って店中の品を食い尽くす勢いの欠食貧乏学生は、最初にゾロに声を掛けてくれた男の弟らしい。
兄と同じく口中に一杯頬張ったまま、毎回飯の美味さを絶賛している。
「なんへ、ふまいしやふいし、ほほのへひははいほーはあっ」
意味不明のまま力いっぱい誉めそやす。
隣で鼻の長いのがしたり顔で頷いた。
「みんなサンジの飯が目当てで通ってくんだよなー。なんつーの?癖になるってか・・・ここで飯食っとくと
身体の調子もいいんだよ。」
それは理解できて、ゾロも咀嚼しながら頷いた。
元々食に気を遣うタイプではなかったが、なんとなく体調がいい・・・と言うか、残業続きでも深酒しても、どこか力が漲るようだ。
「飯だけが目当てでもないでしょ〜」
いつの間にか、向かいに大食漢の兄が陣取り味噌汁を啜っていた。
「なんつーか、みーんな鼻の下伸ばしてサンちゃんの言いなりに動いてるしね。だからこの店
成り立ってんだよなあ。」
言われて見ればなるほど、常連達は揃いも揃って両手に大事そうにトレイを抱えて行儀良く並んでいる。
はいはいと手際良く給仕をする店主の姿は、食堂と言うより配給もしくは幼稚園の給食みたいだ。
このサンジと言う男、とても商売とは思えないほど口が悪くがさつだが、作る料理は美味いし愛想はないのに愛嬌がある。
どんな客でも結果的に言うことを聞いて自ら動く、店の流れを自然に作っていた。
「見てて飽きないしね〜vサンちゃん可愛いなあ。」
寒いことを臆面もなく言う兄はそういうキャラだと置いておいても、くるくると良く動く金色頭は確かに見飽きない。
「ありゃあ、地毛か?」
肌の白さも顔立ちも、この食堂には違和感ありまくりの外見だ。
「多分ね。まだ確認させて貰ってないけど。」
確認する気かよ。
内心の突っ込みをよそに、兄はいつもどおり高速で飯を書き込んで、勝手にレジに勘定するとまたね〜♪
と大声で叫びながら店を出て行った。
「エースな、わざわざサンジの飯食うためにS区から自転車飛ばしてきてんだぜ。車だと渋滞する
からって。」
「S区?遠っ・・・」
長っ鼻が呆れて絶句し、さすがのゾロも顔を顰めた。
「そりゃあなにか?野郎も飯だけが目的じゃねえってのか?」
「大いにあるな。エースは自由奔放だしな。」
ざわざわと犇く店内は全員が男ばかりだ。
早い安い美味い上に量が多いから、必然的にそうなっているんだろうと勝手に解釈していたが・・・
「サンちゃん、今日も可愛いよなあ。」
寒い呟きが、当たり前のようにサラリーマンの間に漂っていて、ゾロは無意識に首を竦めた。
俺は違うぞ。
飯が美味くて早くて安いから通ってるんだ。
それだけだ。
誰に聞かれたのでもないのに己自身にそう言い聞かせ、ゾロは内心で一線を引いた。
いくら美味い飯を食わせるとは言え、野郎相手に熱を上げるのは異人種だと、わりと頑なな偏見をゾロは持っていた。
いたのだが――――
いつの頃からか。
会社から距離が近いのをいいことに昼のチャイムが鳴ると同時に飛びこんで、終了ぎりぎりまで入り浸る日々が続いている。
回転第一の店であることはわかっているが、いつの間にか時間が経っているのだ。
決して意図的ではないと思う。
ただセルフで料理を選んで空いた席で食事をとって、咀嚼する合間に店主の動きを眺めているだけだ。
いつも暖かな湯気に囲まれて、白い手をくるくる動かしてさっき何か刻んでたと思ったらくるっと振り向いて鍋の蓋を取り、ちょいと味見をしたと思ったら今度は何かを引っくり返してまた包丁を握って・・・
まるでマジックみたいに小気味良く軽やかに、見蕩れている内に新しい料理が仕上がり運ばれる。
そんな感じだ。
ちなみに店主はカウンターの外から出ないから、出来上がった料理を運ぶのは手近にいる客である。
頭に巻いている三角巾は毎日違う、カラフルな柄。
逆に割烹着は常に白だが良く見るとデザインが微妙に違うから白い割烹着を何枚も準備しているのだろう。
いつも綺麗で染み一つ見えない。
身なりだけ見ているとこの店にまったくそぐわないのだが・・・
そもそも割烹着が似合うってのが妙なんだよな。
何もかもがちぐはぐで、どこかしっくり来る光景だ。
三角巾に割烹着を着た金髪の若い男。
古びた食堂はよく見れば綺麗に掃除されていて、古ぼけたテーブルも小汚い椅子も、不潔さはない。
男ばかりが犇く雑多な店内は常に活気に満ちていて、せわしない空間のはずなのに妙に心が和む。
不思議だ――――
そんなことをつらつらと考えている内に、あっという間に昼休みが終わるのだ。
わざとじゃない。
「ん、いらっしゃーいいvんナミさん」
いきなり店主が素っ頓狂な声を上げた。
カウンターの向こうでクネクネタコ踊りを始めたから、驚いて振り返る。
暖簾の向こうに若い女が立っていた。
普段OLを見慣れているはずのゾロにすらちょっと眩しく映るすらりとした美少女。
まさに掃き溜めに鶴だ。
「久しぶり、ランチちょうだい。」
「ん、まっかせて!」
常に無いテンションで動き出した店主を尻目に、女はヒールを鳴らしながら店のど真ん中を堂々と突っ切る。
男たちのあからさまな視線を物ともせず、ゾロの後ろまで来ると欠食児童の隣に当然のように腰掛けた。
「久しぶりだな、ナミ。」
「バイトで遠出してたのよ。前に言わなかったっけ?」
「聞いたかもな。」
親しげな会話からして、こいつの友人かなんかだろう。
「お待たせ!ナミさん専用スペシャルランチ、中華風だよv」
「あらありがとう。」
驚いた。
いつもは遠くでくるくる動いている店主がゾロの真横に立って恭しくトレイを掲げている。
近くで見るとすらりと背が高い。
ぶかぶかの割烹着の下は、黒のパンツを履いている。
丁度腰の辺りが目線に合って、尻の小ささに驚いた。
目だけ動かして下からそっと伺い見る。
鬱陶しい前髪は片方にだけさらりと掛かっている。
顎の下には申し訳程度にしょぼしょぼと産毛みたいな髭が生え、それも金色に光っていた。
同じく金の睫毛に、瞼に近い眉毛は・・・
渦が巻いている!!
思わず見上げたまま固まったゾロの顔を、店主はなんとはなしに見下ろした。
ばちっと視線がかち合う。
瞳の色は綺麗な青だ。
眉間に皺を寄せて煙草を咥えてないのに口元が歪んで見える。
まともな顔つきをしたら、相当綺麗なんじゃないのか・・・
「何ガンくれてんだ、おい。」
心地よいテノール。
いつもきゃんきゃん喚いてばかりだが、こんな声をしてたんだな。
うっかり一人ドリームに浸りかけたゾロだが、店主はふんと鼻を鳴らして顔を背けると「んじゃナミさんvゆっくりしてってね〜♪」とまたひっくり返った声を出してとっとと立ち去ってしまった。
後ろ姿を目で追いかけて、止める。
まだ空に留まったままの煙草の残り香がなんともいい感じだ。
「あんたいい度胸ね。」
いきなり正面の女が声を掛けて来た。
「サンジ君に睨み返すだなんて、アピールするなら逆効果よ。」
したり顔でそう言われて、ゾロはぱちりと瞬きをした。
そう言えば、さっきからずっと瞬きもしてなかったような気がする。
睨んだ、か?
呆然としている間にも女はさくさく珍しいメニューに箸をつけている。
ゾロは仕方ないと一人で諦めをつけて、食事を再開した。
生まれついての強面顔に無口、無愛想。
意図しているわけではないが無意識に行動すれば常に「怖い人」に位置付けられる人生だ。
可愛いはずの小学校時代も担任から一目置かれ、中学高校に掛けてはなぜかずっと一人だった。
特段仲間外れにされるでもない、だがどこか浮いた存在。
それが寂しいとか孤独だとか、そんな風に感じる感性も自分にはなかったからそのまま普通に過ごして来たつもりだが、周囲の友人達を見るにつけなんとなく壁のようなものは感じていた。
それは社会人になった今も変わらない。
男子社員をいつまでも平扱いして何かにつけ罵倒する上司も、ゾロには何故か小言を言わない。
同期の連中もタメ口をきかないし、女子社員に至っては半径2m以内に決して近付かず、給湯室やフロアを隔てた観葉植物の陰から時折ちらちらとこちらを盗み見ては何事かを囁いている。
それがわかるから、落ち込まないまでもゾロはつい暗澹たる気持ちになっていた。
そんなに俺は、人に嫌われるタイプなんだろうか。
虫が好くとか好かないとか・・・確かにそういったモノは存在するが、それにしても俺のどこがいけないってんだろう。
書類を渡すだけで、女子の手が震えているのもわかる。
先にエレベーターに乗っていると何故か一緒に乗り込んでこないから、極力階段を使うようにしている。
悪気は無いのに毛嫌いされる理不尽さを嘆くような気質でもないが、そんなことを思い出してふとゾロは哀しくなってしまった。
せめてもう少し、感情表現が豊かならばよかったのだ。
だがどういう訳か、顔面の筋肉は柔軟さに欠け、普通に笑うと言う動作ができない。
口端を上げ歯を見せてみても、何かを企んでいるような歪んだ笑みにしかならない。
微笑むなんて芸当は到底無理だ。
含み笑いに見られるのがオチだろう。
表情の乏しさを言葉でフォローできないものか。
これもゾロは結構努力して来た。
ありがとうとかすみませんとか。
そんな短い言葉でさえ、咄嗟に上手く出てこない。
なんとか声を絞り出せそうな時には、相手はとうに自分の前から遠ざかっている。
いつもタイミングを逃しては、内心で頭を下げるのが精一杯だった。
ずっとずっとそうやって生きて来た。
あまりに不器用すぎる所作の報いがこれなのだろう。
すべて自分の責任だ。
ゾロは飯を食べながら猛省していたが、周囲にはやはりそうとは取られていない。
眉間の皺が深くなり、口をへの字に曲げて黙々と食べ続ける姿は、向かいのウソップを怯えさせるに充分だった。
毎日同じ時間に店を訪れ、昼食を食べる。
本来なら単調なはずの繰り返しの生活が、妙に自分を浮ついた気分にさせるのがなんなのか、
いくら鈍いゾロにもわかってしまった。
切っ掛けは、あのナミとか言う生意気そうな女の出現だった。
別にゾロの好みのタイプではないとは言え、10人見れば10人とも美人だと言い切るだろう
あの女を目の前にしても、カウンターの向こうでくるくる回っている店主の方が可愛いと素で
思ってしまった自分に気付いた。
あの、口が悪くて扁平な身体で、愛想のない男を。
そう、紛れもなくあいつは男だ。
なのに、その姿を見ているだけで胸が熱くなる。
三角巾の隙間から覗く、サラサラした髪に触れたいと思うし、その声をもっと間近で聞きたいとも思う。
思春期や学生時代にも抱いたことの無い淡い恋心を覚えて、ゾロは戸惑った。
これが餌付けってやつなのか?
この手でここにいる野郎共全員してやられているのだろうか。
いくら自問自答を繰り返しても自戒しても、胸のときめきは止まらない。
これほど内心では焦がれているのに、ゾロが店主について知っていることと言えば数える程度だ。
名前はサンジ。
料理が美味い。
口が悪い。
ヘビースモーカーで女好き。
それ以外何も知らないのに、こんなにも心惹かれるのはなぜなのか。
もっと奴のことを知りたい。
そう思い詰めても、引っ込み思案で極度の人見知りなゾロには、とても声を掛けるなんてできなかった。
目が合うだけで心拍数が一気に上がり、頭に血が昇って思考が真っ白になってしまう。
初めてのプレゼンでだってこんなに緊張しなかった。
きっとまともに目を合わせて言葉をかわしたなら、その時点で血圧が沸点を越えてどっかで毛細血管が破裂するだろう。
そんな危惧を大真面目に抱いて、ただ密かにその姿を盗み見る。
叶わぬ想いと知りながら、焦がれずにはいられない。
ため息を一つ吐きどんぶり片手にそっと目を伏せるゾロの姿は、本人のあずかり知らぬところで注目されていた。
淡い色した野の花が゙咲き乱れる草原に、一つだけ紛れ込んだアマリリスが゙でっかく根を張ったように、不自然で悪目立ちする情熱の恋の花だった。
そんな感じでそれなりに平穏に、活気ある毎日を過ごしていたゾロだったが、転機は突然訪れた。
ある日、いつものようにキンコンダッシュで会社を飛び出し目指したその先に、店がなかった。
―――店が、ない?
目が点になるとはこのことだ。
ビルとビルの隙間、あの爪先立ちになりながらも精一杯踏ん張っているような間延びした二階建ての店舗が、すっかり綺麗に撤去されていた。
昨日は確かにあったのに。
いつもの美味そうな笑顔で、欠食児童たちに餌を振舞っていたのに――――
目の前には何もない。
ただ隅に寄せられた瓦礫と舞い上がる砂埃が、確かにここには何か建ってたかもしれないねーと語りかけているだけだ。
「どういうこった?」
呆然と呟くゾロの周りには、一足先についてパニックに陥っている野郎達がわんさといた。
皆それぞれに携帯を取り出し、どこかに電話してはわあわあと喚いている。
「どこの誰だよ、こんなことした奴あ!」
「サンジは?サンジは無事なのか?」
「昨夜、ここで飯食った時は、なんも変わりなかったんだぜ」
「警察だ、警察呼べ!」
ゾロは動転しながらも、冷静に首を巡らし周囲の人間を見た。
あの大食漢兄弟が共にこちらに背を向けて何事か囁きあっている。
黒い縮れ毛も一緒だ。
「やっぱクリークの仕業だぜ。あいつ、サンジに執心だったもんよ。」
「だが証拠がない。元々は立ち退きを言ってたんじゃねえのか?」
「最初はそうだったけど、途中からサンジの飯に惚れちゃったんだって。」
「そいつは誰だ。」
いきなり背後から覗き込まれて、ギクッとした風に兄が振り向く。
「あんだマリモちゃんか。」
「なんだそのマリモってのは。」
むうと口を尖らせ軽く不満を表明しただけだが、鼻の長いのが1mほど飛び退り、うひゃあと怯えた声を上げた。
「いや〜、その面怖いっての。なに額に青筋立ててんの。」
間延びした兄の声がイラつく。
「うっせえ、クリークってのは誰だ。コックはどこに行った?」
「クリークってのは、ここらの地上げ専門にやってる組だよ。サンジは最後まで踏ん張ってたんだけどな。
まさか実力行使に出るたあ・・・」
「んじゃあ、そのクリークってのぶん殴ったらサンジ、また出てくんだな?」
弟の方がぶるんぶるん腕を回し始めた。
「だから待てっての、なんでそうお前は短絡的に・・・」
「で、そのクリークって奴あどこにいる?」
「なんでお前まで単純明快に戦闘態勢に入ってんだよ!」
長っ鼻に突っ込まれながらも、ゾロは無意識に弟と決意の手を組んでいた。
「サンジを、返せーーーーっ!」
欠食児童、もといルフィとか言う大食らいが事務所前にたむろってた若いのを問答無用で張り倒した。
やれやれと首を竦めながら兄エースが後に続き、長っ鼻ウソップがオドオドしながらその後ろをついていく。
ゾロは壊れ掛けた看板から支えの鉄パイプを引き抜いて、しんがりについた。
生身に武器を使うのは不本意だが、こっちは丸腰だから仕方がない。
「サンジを返せーーーっ!」
同じ言葉しか繰返さないでルフィが事務所のドアを破壊する。
「なんじゃわれえっ」
「どこのクソガキじゃああっ」
途端、頭と柄の悪そうな大男達がゾロゾロと飛び出して来た。
「あ、どうも〜失礼します〜」
血気盛んなルフィを抑えて、エースが飄々と間に入る。
「いやこちらにね、裏通りの薔薇亭のサンジ君がお邪魔してないかなと。あ、俺達トモダチなんですよ〜」
この緊迫した空気の中にあって暢気なポーズを崩さないこの男が一番の食わせ物だと、ゾロはますますエースに警戒する。
「なに言うとんじゃわれえ、人んちのドア壊してどないしてくれんねん」
「まあ、それは後で・・・」
置いといてのポーズをするエースの横っ面に、男の拳が減り込んだ・・・はずだったが、エースは片手一つでその拳を受け止めると、愛想のある雀斑面でにやんと笑う。
「もっかいしか聞かないよ。サンジは、どこ?」
眇めた瞳が笑ってないのに気付かないのか、男は片手を捕まれたまま空いた方の手を振り上げた。
次の瞬間
男の巨体が宙を舞い、天井にぶち当たって床に沈む。
「しょうがないね。口で聞いてもわからないなら、身体に効くしかないっしょ?」
ぺろんと舌を出したエースに、組員達が一斉に襲い掛かった。
「ひいやあああああ」
なにしについてきたのかわからないウソップは、灰皿を頭に載せて観葉植物の隅で震えながらこっちを覗いている。
椅子が飛び机が飛び、引き千切られたドアも飛んで室内は激しく破壊された。
エースとルフィの兄弟に任せておけば自然に道は作られるようで、ゾロは飛んでくる破片とたまに来る男を鉄パイプで薙ぎ払って先に進んだ。
奥に続く扉を蹴破り、高そうなソファに踏ん反り返る男を見つける。
「どこのシマのもんだ、くおら?」
面倒臭そうに顎を上げる男より、その傍らで鍋つかみを手に土鍋を持ったまま固まるコックに目が行った。
コックが、いた。
こんなところに。
店を潰されて、拉致られて・・・
あまつさえ飯を作らされてたのか、こんな外道野郎にっ!!!
一気に頭に血が昇る。
「この、死にくされっ」
誰かが前に飛び出して引き金を引いた。
身体が勝手に動いて、鉄パイプが宙を舞う。
カンっと乾いた音が響き、銃弾を叩き落とされたことに周りは仰天したようだ。
「お前、何奴?」
「コックを返せっ!」
ゾロは鉄パイプを構えたまま先ほどのルフィの台詞を繰返した。
「コックを返せ、そいつは俺のだっ!」
「「「はああ?」」」
複数の突っ込みが聞こえた気がしたが、すっかり我を忘れたゾロにはもう何も届かなかった。
立っている者はすべて倒す。
鉄パイプで確実な一撃を与えながらも、降り掛かって来た木刀もそのまま奪い、ついでに真剣で切りかかってきた相手を返り討ちにして刀を口で咥えた。
「な、なんだっ?」
異様な構えに、取り囲んだ組員達は一様に怯む。
「三六・・・」
口に真剣を咥えながらもなぜか正確な発音でゾロは呟き、腰を落とした。
「煩悩砲―――――」
耳を劈くような轟音に閃光、何が怒ったかわからぬまま、テナントの事務所部分2、3階が吹き飛んだ。
「いやー怖え怖え、無茶するなあ・・・」
「まったくだ。ルフィよりタチが悪い。」
「あー、ひでえ目にあった。寿命が縮んだ。」
皆顔を煤で真っ黒に汚して、それでもカラカラと笑いながら崩れかけた階段を下りてくる。
「滅茶苦茶だ・・・」
縮れた金髪を撫で付けながら、コックもゾロの斜め前をふらふらと歩いていた。
こんなに至近距離で側にいるだなんて、そのことが夢のようでゾロはぼんやりとその後に続く。
ざっくりしたセーターにスリムのジーンズ。
やっぱり随分と痩せている。
背は、自分と同じくらいか。
綺麗に切り揃えられた金髪の、襟足から覗く白い肌が煤けていて、無性にその汚れを舐め取りたくなってドキリとした。
コックが、俺の側にいる―――
「それにしても大胆だねえマリモちゃん。どさくさ紛れに告白たあ、やるもんだ。」
あ?
「まったくだ。言うに事欠いて、『俺のコック』だとよ。」
「お前のだけじゃねえぞ。サンジは俺の飯も作るんだからな。」
あ?
ああ?
きょとんとしているゾロの横で、コックが足を止めて振り向いた。
「黙って、俺のこと睨み付けてるばかりの奴だと思ったのに・・・なんだよてめえ。」
気のせいか、その頬が染まっている。
「そんなの、勢いだけで言うなよ。馬鹿にしてんのかてめえ。」
喧嘩腰だ。
喧嘩腰だが、これは・・・
ゾロはサンジに向き直ると、真正面から真っ直ぐにその顔を見つめた。
「俺のコックって、そういうストレートはだな・・・」
視線が彷徨っててこちらを見ない。
文句を言う声もしどろもどろで、ゾロは考えるより先に腕を回してその身体を抱き締めた。
「俺だけの飯を作ってくれないか。」
腹が減ったのだ。
あの何もなくなった店の跡地で、もう二度とコックの飯が食えないのかと思ったら目頭が熱くなった。
飯だけじゃなくて、コックの存在自体消えてしまうのかと思ったら、いても立ってもいられなくなった。
あんな思いをするくらいなら、もう二度と手放したくない。
「お前が好きだ。離したくない。」
「・・・」
大の男に抱き締められて、どう言う訳かコックは身動ぎ一つしなかった。
顔の横にある、金髪から覗く耳は真っ赤に染まり、横に投げ出されたままの両手は指を半開きにした状態で硬直している。
「うおっ、すっげーマジモンの告白!」
「なんだよなんだよ、俺があんだけ口説き倒したのに、なんでサンちゃんその程度のアクションで
落ちてんだよっ」
エースの本気の叫びが聞こえた。
落ちた、のか?
抱き締めたまま顔を傾ければ、コックは呆然と前を見据えたまま真っ赤になって固まっている。
抱き締めた薄い胸からは小刻みに忙しない震えが響き、自分の鼓動と重なり合って信じがたい昂揚感をもたらした。
「こっ恥ずかしいこと、言ってんじゃねーっ」
精一杯の虚勢でもって振り上げられた膝は見事に股間に入り、ゾロはしばしその場から立ち上がれなくなった。
「俺も、人が寝てんのにバリバリ家壊された時は、さすがにトサカに来たけどよ〜」
煙草を咥えてにやんと笑うコックの笑顔は、間近で見るとまた特段に輝いて見える。
「事務所に怒鳴り込んだら、なんか風邪引いたとかで組長、ソファに寝込んでやんの。
ならちょっとあったかいもんでも作ってやってから説教しようかと・・・」
なんてことはない。
作らされていた訳じゃなくて、結局仇みたいな組ん中でも美味いもん食わせてやっていただけか。
話を聞いて脱力するゾロの後ろで、エース達が勝ち誇ったように笑っている。
「そらな。サンジって特定の誰かに特別なことしねーんだよ。誰にも平等。だから俺らも紳士協定結んで、
抜け駆けしねーって決めてんだ。」
「俺はずっとサンジの飯が食えりゃあ、それでいいぞ。」
「とりあえず店どうすんだよ。どっかいい場所見つけねえと。」
「あー俺に任せてvんでもって今度は二人で作ろうぜv」
「・・・紳士協定は何処行ったんだ?」
ぎゃいぎゃい盛り上がり出した兄弟と長っ鼻を横目で見ながら、サンジはゾロの耳にだけ聞こえるように囁いた。
「俺、住むとこもなくなったんだけど・・・しかも一文無し。」
「なら、俺んちに来い。」
こういう時は即答だ。
抜け駆けとでも何とでも言え。
ずっと人に避けられ嫌われてきて来た人生だったけど、捨てる神あれば拾う神あり。
これが俺らの運命だったんだ。
ゾロは、意識しては絶対に作れない満面の笑みを浮かべて、もう一度サンジを抱き締めた。
今度はサンジも抗わなかった。
思えば初めて店に来たときから、ずっと気になる存在だった。
その強面の顔が、飯を一口食うたびに口元から解れていく。
普通の人にはわからない微妙な変化だったけど、サンジはそれを見るのがとても楽しみだった。
自分の飯が誰かを満たす。
その歓びを体現して見せてくれるような緑頭のサラリーマンから、目が離せなくなっていた。
けれど所詮は食堂の店主と客。
声を掛けようにも給仕したらすっと離れてしまうし、常に口元を一文字に引き締めて常連達が話しかけても相槌くらいしか打たないし。
昼になったらすぐ現れるからこの近くの会社だろうけど、何をしてるのかどこに勤めてるのか何も知らない。
どんなものが好きなのか、どんな声で話すのか、どんな時に笑うのか。
色んなことを知りたいと思った。
こんな気持ちは、初めてで・・・
愛する女神ナミさんが現れた時にチャンスとばかりに側に行ったのに、無言で睨み付けられるだけだった。
せめてその声が間近で聞けたならと淡い希望はすぐに萎んで、もしかして嫌われてるんじゃないかと
別の不安が胸に湧き上がる。
いつも不機嫌そうに眉間に皺を寄せて黙々と食べ続ける、その姿に不器用さを見出していたけれど、
ほんとに飯を食べるだけできっと料理する自分のことなんて何も気付いてないんだろう。
そう思うとなんだか寂しくて哀しくて、そんな風に感じる自分が第一に信じられなくて、結構一人で悶々と悩んだ。
そんなサンジの懊悩を察したのか、ナミが何かと情報をくれた。
名前はロロノア・ゾロ。
潟Oランドライン企画開発部所属。
入社当時からやり手で通り、上司も一目置く出世頭。
彼を巡ってOL同士が陰で熾烈な戦いを始め流血沙汰にまで発展したため、会社内に半径2m以内接近禁止令が密かに敷かれたらしい。
ナミの口からぺらぺら語られる事実に、サンジは目を丸くして聞き入った。
見た目だけじゃなくて、やっぱりすげえ奴なんだ。
しがないコックの俺なんて、友達どころか気軽に口すら利けねえだろう。
そう思ってみれば尚のこと近付き難い。
所詮高嶺の花だと諦めて、それでも遠くからでも姿を眺められて自分が作った飯を平らげてくれる、そのことだけを励みにして過ごして来た。
それなのに――――
この辺じゃ名の知れたヤクザを相手に胸のすくような大立ち回りをして見せて、その上「俺のコック」だなんて・・・
俄かには信じられないゾロの告白を全力で受け止めて、サンジは躊躇いもなくその胸に飛び込んだのだ。
そんな経緯などゾロは知る由もなく、蓼食う虫も好き好きの言葉をそのまま噛み締めていた。
こんな幸福一生に一度きりの事に違いない。
折角手に入れた初めての恋人を、大切に大切にしなければ。
傍目からはわかりにくい、彼なりににやけきった仏頂面でこれからの新生活に想いを馳せる。
ロロノア・ゾロ23歳。
――――童貞の春だった。
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