BLOOD-AND-THUNDER HONEY



[1]


 ぽつ、ぽとりと雨のようだった。
 前髪を滑って、靴先に赤い雫。
 肩から胸から、俺の動きに合わせて音を立て、上着だけでは飽きたらず肌まで沁みるほどに濡れた、シャツの布地がうんざりと重かった。

 お散歩コースにすれば小一時間ほど、賑わう街中から港までの道のりを、さながら弾丸、驚異的なタイムで駆け抜けてきたことを思えば至極当然の話だが、ぜえぜえと喘げば蹲りたくなるほどに肺が痛い。煙草やめなよサンジ、とチョッパーの声がアタマのなかで延々リフレイン。よしよしイイコだねー、黙れ。

 甲板まで辿り着くと、まだ暮れ残りのこの時刻から、既にカラッポの2本を傍らに転がして、まったりと満ち足りた表情をした藻の突然変異が目だけでこちらを見た。あとはベッドに傾れ込むしかないような酒壜とのディープ−−ラッパ飲みともいうが−−を見せ付けてくれやがって、しかもやめようとするそぶりは一切ない。
 そういえば、こいつは唇の裏側がそれはそれはやらしいのだった。あまり認めたくはないが、あれはヤバイ。

 悲鳴は黄色に限るというのが俺の信条だ。居残りがこいつなのはやはり日頃の行いってやつ、と自問しつつ、ぱたり、と自答がわり、ヒマそうな左肩に倒れ込んでみた。
 このまま皿に載ってみたら、おそらく料理名は"プリンスの血浸し"。世界中の麗しのレディたちの涙を誘う伝説の逸品として、どこぞの御大層なレストラン−−バラティエでないことは確かだ−−のメニューを燦然と飾るに違いない。

「早く着替えろ。血生臭ェ」

 それを、鬱陶しげにアタマを鷲掴んで押し戻された日には、いくら寛容な心の持ち主たる俺でも、さすがに憮然としようというものだ。

「まああ、冷血さんですこと。そりゃあテメェはマリモだが、身の程知らずにも人間社会で生きてこうってンなら、お義理でも何でもこういう場面じゃあ、いちおー顔色変えてみるぐらいはしてみやがれってンだ、このクソ野郎」
「ったくグワグワグワグワ、るせェアヒルだなテメェ。血の痕ァあとで拭いとけよ。ナミに殺されンぞ」

 やーねー、どーしてこんなオトコの毒牙にかかっちまったんだか俺、とわざとらしく嘆いてみせる。
 ふん、と面白くもなさそうにボトルの残りを一息にやっつけて、ぐいと拳でゾロは口元を拭った。

「どうせテメェの血じゃねェだろ」

 −−御明察。



[2]


 どけ邪魔だとマリモを蹴飛ばしながらの掃除のあと、石鹸を泡々に、念入りに洗い上げた。とりわけ髪。

+

 迷い込んだ繁華街の路地裏で、お約束の"金目のもン出しな"シチュエーションに出くわした俺は、蛮刀片手に前と後、あわやスライスになるところをそこはなんてったってプリンス、間一髪ってとこで咄嗟に伏せて躱し、事なきを得た。得たのだが。

 あろうことか、勢い余ってそいつらはお互いを袈裟懸けにぶった斬っちまいやがって、おかげでこの有様だ。
 バラティエでジジイ以外にもチビナス呼ばわりされていたガキんちょの頃、自分がまるごと煮込めそうな大鍋を抱えあげようとして、アタマからスープをかぶった−−幸いにも煮立ってはいなかった−−ことが片手ほどあるが、あれと似ている。ばっしゃーん。

 既視感に呆然としていたら、我に返ったときには、アタマから爪先まで、完全無欠のスプラッタと化していた。
 職業柄−−どちらもだ−−血の匂いには慣れっこだから、そのこと自体はどうということもないが、こんな状態で人目についたら最後、騒ぎになるのは目に見えている。久々の陸でのお泊りを断念して、泣く泣く俺は戻ってきたってわけだ。

+

 −−それはともかく。

 この船のダンディズムを一手に引き受ける俺が、レディやオコサマどもを脅えさせるようなことは絶対あってはならないことなわけで、ちょっと間考えて俺は、クランベリー・ソースを作ることに決めた。皆が戻ってきたら、ターキーに添えてメイン。あとは石鹸+甘い匂い+食欲で、巧いこと誤魔化されてくれることをひたすらに祈る、と。

「また甘ェの焼いてンのか」
「ハズレでございます未熟者。今作ってンのはお菓子じゃなくてメイン用のソースでして」
「腹減った。肉と魚、どっちだ」
「・・・・・・あのな。そのくらい匂いでわかンだろが!」
「あァ?わかるわけねェだろが。俺ァドーブツじゃねェんだぞ?」
「こりゃどーも−−ケダモノで?」

+

 −−皿を割らぬよう、椅子を壊さぬよう、床に穴を開けぬよう。

 細心の注意を払いつつ、手加減は小指の先ほどというのが俺たちの喧嘩の流儀だ−−但し、人目があれば。

「あの赤いやつか」

 咥えられた指先の、深爪気味の爪の際に、尖った舌が潜り込もうとしている。
 ちゅ、と吸う。甘ェのか酸っぺェのかわからねェ、と不満げな下唇。

(甘酸っぱいって云やァ済む話だろが)

 決め付けてやりたいが、そんなに長い科白、今はムリだ。
 ったりめェだアホ、と焦れてンのと忌々しいのとで俺はがるるッ、と早口になる。
 
「嗅覚ァ、たいして利かねェからよ」

 鎖骨が終わるあたり、額をのせたままのくぐもった声が、云い訳がましく骨伝てに這い上がってくる。
 違う場所からは、ただごとでない熱と質量にまんまと誘き寄せられるまま、苦痛と紙一重のきわどい悦楽が駆け巡ってゆく。

 癪だからいまにも噛み破りそうに唇を戒めて殺す声を、強引に指で抉じ開けられて、敢無く曝け出す羽目になった。いい気になりやがって、硬く熱い指が無遠慮に中で蠢く。

「……っ、何−−」
「へェ、尖ってンな」

 愉しそうに犬歯の先を突付く指の腹に、苦しまぎれに噛み付いた。
 毒牙にかけやがったのァそもそもテメェだろが、と有耶無耶にしたい全てを、ひン剥くようにこいつは笑う。



[3]

 ところで今日は、俺の誕生日だったりするわけで。

 じゃあ何故他の連中が船にいないのかといえば、答えは簡単。

"たまにはあたしたちのためじゃなくて、サンジくんが自分だけのために、時間をつかってみるのもいいんじゃない?"

 爪先立ちのナミさんが、至近距離から俺を覗き込んで、そうにっこり微笑んだからだ。
 しかも頬にはキスをひとつ。これで肯かないとしたら、それは俺のニセモノだ。
 タダだしな、と意外と命知らずなウソップの発言には、居合わせた皆が聴こえないふりをした。今頃は鼻が歪んでいる可能性が高い−−滅法いい奴だが、1度デリカシーってもンをじっくり学ぶ必要があるね、キミは。

 無論、日付が変わると同時に、海賊印のクソ馬鹿騒ぎは存分にやらかした。
 なんせ主役だから、手間や金が掛かりすぎて普段はなかなか作れずにいる自信作なんかも、心置きなく振る舞うことができたし、それがなにより嬉しかったから、朝が来て、パーティーのお開きと同時に、"俺の誕生日"は終わったようなものだ。

+

「おい」

 カチリ、スイッチが入ったのは思うに同時。
 ぐでーっと寝そべった肩に掛けられようとした手を、ピシリと払いのけて光速で身支度を整えた。面白そうに観察してやがる顔面に、シャツとハラマキを叩きつけて立ち上がる。
 舌舐めずりせんばかりのツラで、キリキリ例のバンダナを結んでるのをみたら、堕落モードの俺は、無性に煙草を吸いたくなった。

「物欲しそうなツラで見ンな。まァだ足ンねェのか」
「鏡見てから物を云え。おととい来やがれだ、このエロマリモが」

 侵入者たちの気配はあからさまだ。数が多いな、と見交わした目で確認をして、タン、とひとつ高く俺は踵を鳴らした。
 ようこそ、鬱憤晴らしに最適のお客様ども。クソいらっしゃいませ、だ。

+

 甲板に出てみれば、いきなり刀が飛んできた。すい、と身を反らして、まずはこの身ごなしを御覧あれ。
 雁首揃えて御覧あったばっかりに、底なしにアタマに血が昇ったらしいアポなし団体客が、殺ったのはテメェか、と口々にわめき出して俺は閉口した。
 そういえば、足元でびよよん揺れてる刀に見覚えがある。路地裏のおふたりからのツテらしい。

 事情は一切おかまいなし、交えた刀で火花を散らしては、悪人ヅラでバカがニヤリとわらう。
 いっそこいつから殺っちまいたくなる衝動を理性で抑えつつ、とりあえずはつつましく、脚の届く範囲だけ片付けちまおうか、って気分なのだが。
 もっとも俺の場合、脚の届く範囲が異様に広かったりするんであって−−云っとくがテメェら全滅だ悪ィな。



[4]

 死屍累々というやつだ、まさに。

 ここまでくると戦利品がどーのという余裕はカケラもない。一切合財、残らず海に蹴落としちまうよりほかないかもな、とその手間をうんざり思い描きながら、血みどろのくせにヤケに清々しい表情で寝転んでいるハゲの横を通り過ぎようとした瞬間、足首を掴まれた。

「−−何やってンだコラ」
「何処やられた」
「誰が」
「テメェに決まってンだろが。このアホ」

 云われて、アタリマエのように凄いことになっている自分の格好を見下ろす。さっきと似たり寄ったりだ。
 そういや、刃物が何度か掠った気もするが目につくほどでもなし、コーフンしてるから痛覚はどっか麻痺したまんまで、どれが俺の血やら見分けられたもんじゃない。

 気の所為だろ、とあっさり流して風呂へと向かおうとするのを片手で引き止めたままで、たじろぐほどに自信たっぷり、こう云いきられた。

「これァ、テメェの血の匂いだ」

 さしもの俺も絶句した。不本意も不本意。

(嗅覚ァ、たいして利かねェからよ)

 だったら何だって、ンなもん、嗅ぎ分けてやがる。
 嘲笑うかのように、慌しく血液が駆けめぐる。一瞬とはいえ、なんだか目が眩んだ。
 それが一体どういうことか、たぶんこいつには何にもわかっちゃいねェだろう。俺だってわからねェ。わかりたくもない。

 狼狽える俺をゾロは、心なしか神妙な面持ちでじっと見上げている。
 小指の先ほどの手加減もままならず、渾身の力で海に蹴り込んで盛大な水飛沫を上げさせてから、その場にしゃがみ込んだ。
 何てーか、その。気の迷いだか鬼の霍乱だか、ひょっとしてこれがプレゼントだったりしたら、その。





 −−ヤバイかも、俺。


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この2人の駆け引きっぽい言葉がたまらないんですよ…!
サンジの匂いなら嗅ぎ分けられちゃうゾロがまた…。
サンジの「そりゃどーも――ケダモノで?」のくだりが…くだりが大好きなんです…!


かなや様、どうもありがとうございました!





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