締め切ったカーテン。薄暗い部屋の中、ハァハァと荒い息遣いだけが妙に耳に響く。
 小学校から使っていた安いベッドのスプリングが、二人分の重みを受けて背中でギシギシと音を立てる。
「…ァ、…」
 思わず漏れたかすれ声は、まるで自分のものじゃないみたいに静かな部屋に響き、震えを隠すように、サンジはぎゅっと目の前に覆いかぶさる相手のシャツを握った。
 
 遠く、階下で誰かが自分の名前を呼んだ気がした。
 朦朧と熱い頭、酸欠になりそうなほど荒い呼吸の中、やがてギシギシと古い階段を登ってくる足音が近づいてくる。
 それは迷いなくこの部屋の前で止まり。
 
 薄い木の扉が外から開かれる。
 ゆっくりと。まるでスローモーションのように。
 隙間から覗いた顔が丁度、ベッドに仰向けに寝そべったサンジを捉えた。
 驚きに見開かれていく目。
 ああ、そんな表情も出来るんだなぁ、なんて。
 ぼんやりとそう思った。
 
 滲む視界、暗い部屋。その中でも入り口付近にかかった日めくりカレンダーの11日という文字だけが、今でもはっきりと目に焼きついている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いつか優しいため息のように
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 11月に入れば、繁華街といえども薄手のコートでは随分冷えるようになってくる。
 コックスーツに羽織った上着の裾を掻き合わせて、サンジは小さく背を丸めた。
 少し空気が澄み初めて、どこか町の灯りが恋しくなるこの季節。
 サンジはこの時期がとても苦手だ。
 
「ちくしょう、ジジィめ…」
 右手にぶら下げた袋の中の、綺麗にラッピングされた白い箱がずしりと重い。
 ふらりふらりと暮れ行く街中を歩きながら、サンジは力なくため息をついた。
 箱の中に入っているのはただのデコレーションケーキが1ホール。
 けれど今のサンジにはそれが酷く重い。
 ついでに足取りも、胸の真ん中あたりもずっしりと重い。
 今すぐこれを投げ捨てて逃げ出せたらいいのに、店の用事も丹精込めたバラティエのケーキも投げ出す訳にもいかない。
 
 
 この季節になると、いつも思い出される記憶がある。
 レストランの仕事が終わってから歩く夜の家路、暗い部屋の中で眠りに落ちる瞬間。
 日々の仕事に忙殺されながらも、一人になったサンジの心が緩んだ時にじわりと心を蝕むそれは、重く胸を押し潰す。
 苦しくて、空気の中にいるのに呼吸の仕方を忘れそうになるほどの感情の波に目が覚めたのも一度や二度のことじゃない。
 それが哀しいのか懐かしいのか、思い出しすぎて今ではもう半分わからなくなってしまったけれど。
 忘れたくて、忘れようと思って。けれどあれから何年経った今でも、この時期になると想いは甦る。
 その度に見ないように心に蓋をして、痛みに慣れた振りをし続けて。
 ……それでも未だ心に残り続ける想いの訳を思えば、サンジは小さく唇を歪ませることしかできない。
 いつか時間が忘れさせてくれる、その時を待って。
 
  
 
 あれは高校3年の冬、だった。
 サンジにはひとりの親友が居た。性格も体格もほぼ正反対なその男の名は、ゾロという。
 サンジは専門学校への進学が決まっていたし、ゾロは剣道の推薦で県内随一のスポーツ大学への道が決まっていた。
 勉強とプレッシャーに追い立てられる受験組みを尻目に焦るでもなく、いつものように肩を並べて、笑い合って、そして時々喧嘩する、そんな毎日。
 お互いの道が分かれる数ヵ月後の生活を奥底では意識しながら、じわりと滲む寂しさに無理やり気づかない振りをしていた。
 
 高校3年間、ゾロとの関係は友人。ただそれだけの関係だった。
 それだけの関係だったけれど。
 
 でもサンジは、ゾロの事が好きだった。
 
 いつからだったろう。女の子が大好きなはずの自分がどうしてとそれなりに悩んだし、真っ当な恋をしようと足掻いた時もあった。
 でもゾロも多分、同じ思いなんじゃないかと。お互い口に出しては言わなかったけれど、毎日の空気の中で自然と伝わるものが確かにあって。
 そう気づいてからは何かが吹っ切れた。
 好き。――なんて陳腐な言葉だと笑ったこともある。でも自分たちの関係はそれ以上でも以下でもなく、唯一知るその単語だけが全てだった日々。
 誰よりも傍に居たかったし、この関係が続けばいいと漠然と願っていた。
 
 
 誕生日にはケーキを作るのが、サンジなりのお祝いだった。
 仲のいい友人たちの誕生日には必ずサンジはケーキを学校に持って行ったし、11月11日、それが目前に迫るその日も勿論、サンジはせっせとケーキを作っていた。
 上手く焼けた抹茶色のスポンジに、出来上がりとゾロの顔を思い浮かべれば自然と口元がにやける。
『 Happy Birthday ZORO with LOVE 』
 冗談めかして乗っけてやろうかと、そんな事まで書いてしまったチョコプレートは、それでもやっぱりとんでもなく恥ずかしくなって、LOVEの部分は割って口に放り込んだ。
 自分の行動にアホ過ぎると呆れたけれど、心の奥から込み上げる幸せがどうにもむず痒くて小さく笑った。
 
 
 
 だけど結局、ゾロにケーキを渡すことはできなかった。
 
『お前に彼女が出来ない間、可哀想だからケーキくらいはこれからも俺が作ってやるよ』
 そんな事を言って、渡すはずだったケーキ。
 今後の繋がり、小さな約束。サンジにとってゾロとの間に欲しかったのはそんな些細なものでしかなかった。
 けれど。
 
 誕生日の前日、道端で偶然に会ったゾロの父親から紹介された『ゾロの婚約者』の女の子。
 
 ぽかんと、思わず口を開けたまま得意の女の子に向けての賛辞すら忘れてしまったサンジに向かって、黒髪のその子ははにかむように柔らかく笑った。
 まだ高校生だったゾロに、今の時代既にそんな相手が居た事も驚きだったが、明日ゾロにも正式に紹介するのだと言うその父親の目を見て、ようやくサンジは知った。
 どうしてわざわざそんな相手をサンジに紹介したのか、その意味を。
 
 その時初めて、サンジは周りから認められない自分達の存在を知ったのだ。
 世界から置き去りにされたような感覚に、足元がぐらぐらと揺れる。
 ゾロの父親が一体いつ気づいたのかはわからない。
 けれど、サンジが漠然と望んでいたゾロとの関係、やがて行き着くその先にあるものを、はっきりと現実的に捉えたのはその時だ。
 そして酷く力のない自分達の立場を思い知ったのも。
 
 
 
 
 だから切り離したのだ。
 手遅れになる前に。
 本当に、自分達がその世界の中で孤立してしまう、その前に。
 
 
 
 
 
 
「チビナス、てめぇここ行ってこい」
 怒涛のランチタイムが終わり、ディナーに移るまでの僅かな休憩時間、そうゼフに渡されたのは白い箱に入ったホールケーキと地図だった。
「あ?なんで俺が」
「どうにも注文が納得いかねぇ」
「ハァ?」
 最近ゼフの古い友人である赤い髪のエロ親父に押し切られる形で、バラティエが始めた宅配サービス。
 この堅物ジジィをよく丸めこんだと感心したものだが、11月〜12月限定で、ケーキを1ホール頼めば+1500円で可愛いバラティエの制服を着た女の子が自宅まで配達してくれるというものだ。
 バラティエには基本女の子スタッフはいなかったのだが、赤髪がどこからかサンジも垂涎のバイトの女の子ちゃん達を連れてきた。しかもコックスーツをモチーフにしたオリジナルの制服まで用意するという周到さ。
 レストランが本業のバラティエが初めてテイクアウトできる物を売り出したということもあり、クリスマスに向けて段々と注文も増えてきている。
 しかし中にはちょいちょい、勘違いする客もいるようで。
 確かに可愛い女の子がケーキを持って尋ねて来てくれれば、引き止めたくなる気持ちはサンジにもわかる。
 それ故配達にあたる可愛いサンタちゃんには必ず、強面のトナカイさんが運転手として同行しているのだが。
 しかし最初から配達をサンジに任せるとは、この家は難ありという事か。クレーム受付、かつ、何かあればシメてもいいということだろうか。
 そう思いながら地図の書かれた伝票を裏返し、配達先の名前を確認したサンジは、その場で凍りついた。
 すっと全身の血が引いたように静まり、その後どっと心臓が早鐘を打ち出す。
 手にした紙が、じわりと汗で滲む。
 
「……ロロノアんとこからは、毎年必ず注文が入ってた」
 サンジの様子を気にするでもなく、ゼフはそう零すと前掛けを外して休憩室へと足を向ける。
「毎、年……?」
 初めて知る事実に思わず聞き返せば、ゼフは背中越しに小さく溜息をついた。
 その動作にびくりと肩をすくませ、サンジはぎゅっと制服の裾を握った。
 ゼフは自分達のどこまでを知っていた……?――全てを、知られていたとしたら。
 まだ決して憚る様な関係ではないはずだ。けれど。あの時、遥か先を見据えるゾロの父親の顔が思い出されて、サンジは手を唇に押し当てた。ぐっと込み上げそうになるものを、なんとか堪える。
「なのに今年はどうも――」
 血の気が失せたままその場に立ち尽くすサンジに、ゼフは舌打ちで言葉を切り、代わりに面白くなさそうに吐き捨てた。
「てめぇら昔はよくつるんでたじゃねぇか。久しぶりに行って、社員教育ってもんを教えてやれ」
 ロロノア・ゾロ――そう書かれた伝票を握る指先が、小さく震えた。
 
 
 

 
 
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 08.12.23