悪いオトコ |
ゾロが女に貢いでいる。 「……ハァ!?」 その噂を初めて耳にしたとき、ナミは思わず同じ講座を受講していた芸術学科のウソップの鼻を思い切り掴み上げていた。 「あんた何寝ぼけた事言ってんの?あの女の魅力を何も解っていない、色事よりも睡眠と筋肉鍛錬を選びそうな、朴念仁というよりもものぐさを絵に描いたような使えない男が。あのゾロが、女相手に貢ぐですって!?」 「いいいイテエ!」 そんな甲斐性あるなら私に酒のひとつでも奢れってのよ、と勝手に怒りを燃やすナミの手を涙ながらに振り解いて、ウソップはいやそれはありえねぇだろ、と突っ込むことを忘れなかった。 ゾロというのはナミと同じ社会学科の学生で、酒と睡眠にだらしないのが少々難だが、隠し事が嫌いな実直な性格と腕っ節の強さはウソップも気に入っていて、何かとよくつるむ仲だった。 ナミとは酒量も度胸においても同等に渡り合える、大学内でも珍しい存在だ。 授業が終われば途端にバイトと鍛錬一徹。その強面のせいで怖いとか、付き合いが悪いとか思われがちだが誘えばちゃんと乗ってくるし、酒が入れば子供のような笑顔を見せたりもする。 週一でどこかの道場にも通っていると聞いていたし、そのゾロがまさか女に、とは信じがたいのはウソップも同じだった。 けれど。 「カヤが…この前ゾロと会ったらしくてよ」 カヤとは、同じ市内にある有名お嬢様大学に通っているウソップの幼馴染だ。幼い時に体が弱かった為に馴染みの病院に定期検診に行っているのだが、どうやらそこでゾロに出くわしたそうなのだ。 「あのゾロが病院?」 「ああ…ありえないだろ。カヤもびっくりして聞いたらしいんだよな。そしたらどうやらその女ってのが、ゾロがバイト中に手首を捻ったのをやたらに心配して行かせたらしいんだよ」 「ますますありえないわ…!」 青ざめた顔でナミが腕をさする。 まずそのへんの普通の女がゾロに言うことを聞かせること自体、不可能に近いのだ。ウソップも神妙な顔で頷いた。 カヤは単純にその女性のことを誉めたらしい。 「そしたらゾロの方がな……『俺はあいつのものだから、体の管理は当然だ』ってよぉ…!」 「ひいぃぃ!ナニそれ!キモ!寒ッ!」 いつのまにか深刻な噂話は真夏の怪談の様相を呈している。 「ちょっと怖いこと言わないでよ!あいつの顔で想像しちゃったじゃない!」 「俺に文句言うなよ!でも本当なら…ゾロがそこまで言うってことは相当だろ?」 カヤはいたく感動して、全てを捧げたいなんて素敵な恋愛ですね、とゾロを祝福したという。 「でもよ…なんかバイト代も全部渡してるって話で。…なんか悪い女に騙されてるとかじゃねぇのかな」 「あのゾロが…?そんな女なら是非会ってみたいわ……」 心配そうに眉をひそめるウソップの肩を、ナミは大丈夫よ、と叩いた。 「あのゾロよ?相手がどんな女でも、アイツは多分、思うが侭真っ直ぐ進んでるだけに決まってるんだから」 1DKのゾロのアパート。 一人暮らしの何もない部屋だ。 バイト帰りの疲れた身を引きずるように帰宅すれば、途端にいい匂いに満ちた暖かい空間が自分を出迎えて、ゾロは口元を小さくほころばせた。 冷えていた体が胸の奥から暖められるようで、靴を脱ぐと慣れ親しんだ相手の姿を探した。 なんでわざわざD付きにしたんだ、明らかにテメェにゃ無用のスペースじゃねぇかと笑って言った金髪頭が、今そのスペースで嬉しそうに揺れている。 調理器具はヤカンしかなかった一人暮らし男のキッチンに、いつのまにやら定位置に並べられた両手鍋に中華鍋、一体何に使うのかすらわからない様々な調味料。 そして今晩もその白い手から生み出されるのは、色とりどりの暖かな料理だ。 「しかしなんだよこの荷物は。引越しでもすんのか」 壁にびっしり、梱包を解かずに積み上げられたダンボールを呆れたように両手に大皿を持ったままのサンジが見回した。 ゾロは先に開けていたビールの缶を持ち上げながらちらりと目をやる。 「俺の荷物じゃねぇ」 「ふうん」 ゾロの部屋は家具と呼べるものがほとんどない為に随分広く感じたものだが、今日は大小さまざまなダンボールがひしめきあっているせいで、中央に広げた小さなこたつテーブルですらとても窮屈だ。 テーブルの上に皿を並べながら、ふとゾロの頬に赤黒い痣を認めてサンジは少し眉を上げたが、そのまま何も言わずに自分も向かいに腰を下ろした。 「やる」 食後のお茶をすすりながらゾロは傍らに脱ぎ捨ててあった上着のポケットを探ると、取り出した茶封筒をサンジに向かって差出した。 サンジはそれを受け取り慣れた手つきで中の枚数を確認すると、途端ににこっと相好を崩した。 膝をついたままテーブルを回りこんで、上目使いにゾロに擦り寄る。 「ありがとなゾロ。丁度新しい指輪が欲しかったんだ」 俺にはお前だけだぜ。 そんな甘い言葉と笑顔が白い腕と共にゾロの首に絡みつく。 ゾロはふわりと柔らかい匂いのするサンジの腰を抱きしめて、そのまま膝の上に抱き上げた。 ゾロに比べると細くて軽い。けれどしなやかに力強く伸びた筋肉や骨格は、間違いなく男の体だ。 ぐい、と腰を押し付ければクスクスとサンジが笑う。 「しようか」 子供が遊びを誘うような、あどけない台詞。 しかしゾロを見る青い瞳は蟲惑的な光を帯びて揺れている。 濡れた唇をちらりと赤い舌が舐めた。 返事の代わりに、ゾロはそのままサンジの体をカーペットの床にゆるやかに押し倒した。 その白い首筋に唇を押し当てて強く吸い上げると、小さく甘い声が漏れる。 これでいったい何人落とせているんだと、自分を含めて頭の沸いた輩がどれだけいやがるんだと、暗い独占欲の怒りを燃やしたこともあった。 でも今はそんなこと、どうでもいい。 わざとらしく腕を絡める金髪の小さい頭を、そのままぐっと引き寄せる。 「…悪い野郎だな、テメェは」 「…そんな悪いオトコが、いいんだろ?」 独白めいた言葉に、笑うように、サンジの唇がかすめる。 「俺も」 一瞬ためらうように。青い瞳がゆっくりと閉じた。 「すげぇ……好き」 ゾロの首に回された腕。 その合間から、あたたかな吐息が触れる。 その時ばかり小さく震えるサンジの指先に、ゾロは気づかないふりをした。 サンジと知り合ったのは去年の暮れのこと。 ゾロのバイト先だった飲み屋の前の通り、暗がりに積み上がったビールケースの上に魂ここにあらずと言った顔でぽつんと座り込んでいるのを見つけたのが始まりだった。 酔っ払いかと最初は放っておいたが、ゾロのシフトが終わる深夜を回っても未だにそのままの姿でいるのを見て、何かに惹かれるようにふらりと声を掛けた。 『なんだテメェ』と振り上げられた脚に、一瞬だが本気の殺気を感じ取り反射的に構えた。 けれど金髪はハッと何かに気づいたように突然に口をつぐむと、ぐっと我慢するような子供みたいな顔をして。 そして今度はやけにゆったりと、綺麗に笑って見せた。 『俺と遊んでみねぇ?』 そんな、作り物の仕草。 けれど色んな表情を押し込めてなお揺れるその青い瞳に、ゾロは気づけばその金髪に手をのばしていた。 以来こうしてその甘い吐息をむさぼり、体を開き、欲しいといわれるままに金を渡す。 サンジの作った筋書き通り、悪いオトコに引っかかった間抜けな野郎を演じてやる。 演じてやる、というと語弊があるか。 出合ったあの日。 ぎこちないサンジの笑顔と、初めてだったろうに弱々しく悪態を吐きながら絡められた熱に、とっくにゾロは落ちていたのだから。 だから演じるまでもなく大筋はサンジの思い描いている通りであったし、渡した金がどう使われていようが、構わなかった。 とりあえずそれでサンジ自身が繋がっていてくれるなら。 ただできればあと少し、普通に笑ってくれればいいのにと、そう思っているだけで。 「ア……ッ」 ぐっと背後から最奥に向かって腰を打ち付けてやれば、白い背を反らせてサンジが鳴いた。 何かを掴むようにカーペットの毛足を掻き毟る腕が綺麗で、ゾロはたまらずその肩に牙を立てた。 ダンボールに囲まれた狭い部屋、お互いのシャツをぐしゃぐしゃに敷きながら体を貪り合う。 汗ばんだ体から発せられる熱は、すでにどちらのものかは分からない。 荒い息遣いと淫猥な水音。 サンジは行為の最中あまり派手な声を立てたがらないので、部屋には獣が交じり合う音だけがこもる。 強きなその性格がゾロにとっては好ましいところなのだが、男としては悔しい部分もあって、ゾロは殊更強く白い体に自らをねじ込んだ。 サンジは金がなくなる頃にふらりとやってきては、こうして気まぐれに飯を作り、ゾロに抱かれる。 それ以外にどんな生活を送っているのかは知らない。干渉しあわないことが、暗黙のルールだった。 電話番号もメールアドレスも勿論知らず、会える手段はサンジがこの部屋に来ることだけで、それがいつになるのかは合鍵を持ったサンジの腹一つだった。 もっともゾロの方は部屋に置いてある教材から大学生であること、また割のいい飲み屋やバーのバイトを渡り歩いていることなどは会話などからサンジもわかっているだろうが。 金を与えて、代償を貰う。 それだけの単純な関係だった。 金をどっかの脚を潰したジジイとやらにやってることを知ったのは、偶然だった。 いつだったか一度だけ。 俺のせいなんだよアハハ、と酔いが回って真っ赤になった顔で笑いながらサンジは言った。 手術して切るはめになったのだと、蛇口でも壊れたみたいに目の端からは透明な雫がつっぷした机に流れ出ていて、アホみたいにぐしゃぐしゃに泣き濡れてみっともない有様になりながら、それでも笑ってそう言った。 当の本人はなんかここ酒零れてんのかな、つめてぇな、なんて頭をゆらゆらさせながらちっとも気づいてないみたいだったので、ゾロもあえて見ない振りをして、おう、零れてんなとだけ呟いた。 そんな夜が一度だけ。 もっともそれら全てが嘘だと。 自分のようなオトコを落とす為の技なのだとしたら、それはもうゾロとしては大人しく白旗を掲げるしかない。 「今日はどうして来たんだ」 前にサンジが訪れた時から数日も経っていない。 気だるさを伴って隣に転がる金髪の丸い後ろ頭にゾロが目線を移せば、んー、と間延びした声とともに上がっている紫煙が揺れた。 「別に、ちょっと気が向いただけ」 にやん、と笑うサンジの指から煙草を取り上げると空き缶でもみ消した。 体を仰向けにしてくるりと巻いた眉に唇を寄せれば、抵抗するでもなくサンジはくすぐったそうに笑ってゾロの首に手を回してくる。 柔らかく脈打つ白い首筋を辿りながら、ゾロはその耳に吹き込んだ。 「…俺は今日、テメェがここに来てくれてすげぇ嬉しい」 「誕生日、おめでとう」 その言葉に、ほどけていたサンジの体が急に強張った。 閉じかけていた青い目が、驚きに開かれてゾロを見上げる。 「…テメ、どこでそれ」 「そんな日に、テメェがここを選んでくれたその意味を、俺は自惚れてもいいんだろ」 「……なッ…」 慌てたように体を離そうとするその腕と足を押さえ込んで、ゾロはサンジの青い目をじっと見据えた。 色々叫びたいことがあるのか、口をぱくぱくさせたままみるみる真っ赤に染まるその顔が面白くてたまらない。 「そういやこの頬の痣な」 急に代わった話題に、サンジが目線を返す。 「テメェのジイさんとやらに殴られた痕だ」 凶悪に笑うゾロの顔に、今度こそサンジは絶句した。 「……ハァ!?な、なんでテメェがジジィのこと知ってやがる…ッ!!」 途端に暴れ始めたサンジの頭が、殴られた痕に綺麗にヒットしてゾロは思わずうめいて体勢を崩した。 その隙に体の下からサンジが抜け出すも、あいにく周りはダンボールの壁である。 すぐにその場で剥き出しの脚を捕まえると、箱の間に追い詰めるようにしてその体を縫いとめた。 「……離せ!」 掴まえた手首に骨が軋むような力を入れてやると、青ざめた顔をしてサンジが叫んだ。 「だったら逃げんな。……昼はジイさんのレストランで働いてるんだろ。それも知ってる」 囁かれた言葉に、サンジの顔にさっと怒りの朱が走った。 「人のこと調べやがったのか!」 「ああ、調べたな」 「…ッ!最低野郎、テメェとは今日で終わりだチクショウがッ!!」 「ああ、それには大いに賛成だ。……こんな関係今日で終わりだ」 淡々と、けれど強い声でゾロは言葉を下した。 「俺はテメェに惚れてんだ」 ぽかん、と目を丸くしてサンジが言葉を失った。 「体と金の遣り取りはもういらねぇ。俺はテメェの体が欲しい訳じゃねぇ」 「ハッ…なに言ってやがる」 笑い捨てて逃げるように身じろぐ体を、さらにダンボールの背に押し付ける。 サンジはギロリとゾロを睨みつけた。 「そんな勝手な思い込みいらねぇよ!ウゼェ!離しやがれ」 「思い込みじゃねぇ。俺は体が欲しいわけじゃねぇ」 「……ッざけんな」 「テメェだって、金だけじゃねぇだろう」 「金を取ったらてめぇに何が残るってんだ」 「俺のバイト代なんてたかが知れてる。なのにじゃあなんで俺なんだ」 「そりゃ、」 「言ったはずだ。俺は自惚れてる」 「……違う」 くしゃ、と初めてサンジの表情が崩れた。 「何が違う」 「……そんなんじゃねぇ」 ぎゅっと何かを堪えるように俯いた顔を、ゾロはクイと持ち上げた。 「俺はテメェがこの部屋で、毎晩飯作ってくれれば、それでいいんだ」 言い含めるように、一言ずつ、ゾロはサンジに言葉を渡す。 「その為にはまず」 サンジの眉が、まるで泣き出す前の子供のように歪んでいる。 ゾロは小さく口端を持ち上げた。 「最初の台詞からやり直しだアホ眉毛。『遊んでみねぇか』じゃなく『惚れてみねぇか』って言ってみろ」 「……クソ、野郎が……っ」 小さく呟くサンジの涙が零れる前に、ゾロは素直じゃないその口をふさいだ。 「あー…それにな、もうここ以外帰る場所はねぇぞ。ジイさんに承諾貰って、テメェの部屋引き上げてきたからな」 「………………はぁ!?」 部屋中に置かれた、ダンボール箱の数々。 何かに気づいたようにそれらをぐるりと見回したサンジが、恐々とゾロを振り仰ぐ。 「てめ、まさか……」 「だから腹括れ」 ゾロは愕然とするサンジの、力の抜けた腰をつかむと膝に抱え直した。 「…ッ信じらんねぇ、クソミドリ野郎が…ッ」 悔しげに呟くサンジのその腕を首に回させ、そしてニヤリと笑う。 「悪いオトコに捕まったと思え」 サンジはしばしぽかんとゾロの顔を見ていたが、やがて弾かれたように笑いだした。 「ふざけんな、捕まったのはテメェの方だ!」 不敵な輝きがその青い瞳に戻る。 そしてゾロに回された腕に、ぎゅうと暖かな力が込められた。 |
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