だからその手を離さない 9
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「逃げるな」
 サンジの目を燃えるような強さで見据えたまま、初めてゾロが口を開いた。
 耳に落ちる、久しぶりのゾロの声。体格と同じで揺ぎ無い力強さを持った、低く真っ直ぐなその声がビリリとサンジの耳を打った。
 捉えられたままの手首がぎりぎりと軋む。
 半年分募っていた想いがどっと一気に押し寄せてきて、溢れてしまいそうになって、サンジは身を捻るように慌ててゾロから目を離した。しかしそれはゾロの手で易々と引き戻されてしまう。
 それでも嫌々をするように力なく首を降った。涙が後から後から零れてきて言葉にならない。
 
 
「ゾロ!」
 緊張を破ったのはチョッパーだった。
「お湯をたくさんお風呂に溜めて!温度は少しぬるめで、それから……」
 ゾロはチッと舌打ちをして呆然としたままのサンジをぐいと引っ張った。そのまま引きずるようにして部屋の奥にある風呂場まで行くと、ドアを乱暴に開け放つ。
 電気をつけて湯船に栓をし、握り部分に赤と青模様のある2つの蛇口を全開にした。一気に溢れ出す水に、ドドドと大きな音が狭いタイルの部屋にこだまする。
 ゾロは手馴れたように青の蛇口を調節し湯加減を見ては、何やら両手に抱えていた器具を風呂場に持ち込んだ簡易机の上に並べ出すチョッパーと言葉を交わしている。
 サンジは回らない頭でそれらをただぼんやりと見ていた。
 逃げ出さないように捕まえられたままの手首が熱い。
 滲む視界に映るゾロの姿はまるで現実感がなくて、ただ大きくこだまする湯の音が耳にうるさい。
 医療道具の詰まった鞄から銀色に光る器具をいくつも取り出し、いつのまにか人型になったチョッパーが険しい顔でしきりにゾロに向かって話している。ゾロもやはり険しい顔をして静かに頷くと、グイと体を引き寄せられた。
 ゾロが浴槽をまたぎ、服のまま脛くらいまで湯の溜まった風呂に入った。
 よろける体をゾロの胸元に抱えられるようにして、サンジも湯の中に引きずりこまれる。
「サンジごめん!この菌は本人の意識が無い時間を使って体を喰うんだ。細胞が寝ている時間に自分の毒素を送り込んでそれを壊すんだよ……今麻酔をかけるのは逆に危険で……このまま切らせてもら……で…、体を無理にでも暖める必要が…」
 どうどうと注がれる湯の音に負けじとチョッパーが叫んでいる。
 でもそれの一言もサンジの耳に入っていない。
 ゾロがサンジを抱えたまま座りこむと、びしゃびしゃと腰まで湯に浸かった。生温く服の濡れた感触に、小さく眉をしかめる。
 目の前に飛び込んでくる厚い胸板を押しやって、サンジは湿気と息苦しさに顔を上げようとした。
 と、手を掴んでいたゾロの手が離れた。
 同時にビッと布の裂ける音がして、サンジのシャツが背中から破られた。
 露になる白い背中と、心臓の真裏に巣食う黒い花。隠していたものが明確に晒される段になって、サンジはようやく今の状況に気が付いた。
「……ッ!」
 ゾロの体を押しのけて、湯から飛び出した。しかしすぐさま腰に回ってきた太い腕に引き戻される。
「嫌だ、は、離ッ…見るんじゃねぇ!」
 ゾロをまたいで正面から抱き合う形のまま、闇雲に手を振り回して逃げを打つ。しかしゾロの手は揺るがない。サンジの腰をしっかり掴んだまま、熱い手が更に背中に回された。
 背の肌に直接触れる熱さに、サンジの体が傷に触れた時のようにビクッと震えた。
 何時の間にかじっとりと汗を掻いた背中は驚くほど冷たくて、置かれている手のひらがジンジンと熱い。
 ゾロの顔がしかめられた。
「やめッ……!」
「サンジ!」
 なお逃げ出そうともがくサンジの両腕を掴み、ゾロが叫んだ。
 耳に直接入り込んで来たような強い声に体をすくめてゾロを見あげると、真っ直ぐ自分を見下ろす鳶色の瞳に捕まった。
 
「いいか。抱えてるものがあるなら、全部俺に言え」
 搾り出すようなゾロの声。
 ぎゅっと大きな体に抱きしめられて、サンジは喘いだ。
 眉間に皺を寄せて、まるでゾロまで泣きそうな顔をしている。
 いい年した大剣豪が、なんてツラだ。
「てめぇは……俺のモンだろうが」
 耳元に掠れた声が落ちる。
「……ぅ、…」
 情けねぇ声出してんじゃねぇよ。俺がいつテメェのモンになったんだよ。
 言ってやりたかったけど、喉がつかえて無様な泣き声しか出てこなかったので。
 サンジは代わりにその厚い背中に腕を回した。
 そろそろと確かめるように、やがて力を込めてゾロの厚い筋肉を、その熱い背中を辿る。
 離れていた1年の間に更に隆々とした筋肉。
 知らない傷跡。
 落ちる汗。
 変わらないゾロの……ゾロの匂い。
 
 涙がどっと溢れた。
 すぐさま息が止まるほど抱きしめ返されて、サンジは身動きもできずただ目を見開いてゾロを見つめた。
「歯を食いしばるんじゃねぇ、砕けるぞ。痛ぇならここを噛んどけ」
 後頭を抱えられて、骨ばった肩口に唇を押さえつけられる。しかしサンジは頭を振ってそれを逃れるとゾロの顔を見上げた。
 夢じゃないという証に、その顔をもっと良く見たかった。
「サンジ、いくよ」
 背後から強張ったチョッパーの声。そして左肩の下あたりに、刃が立てられたような鋭い、熱い痛み走った。
「……ッ!」
 反射的に飛び上がった体を、腰と背に回されたゾロの腕がしっかりと抱きとめる。
 熱い。痛い。視界がちかちかと瞬き、頭ががんがんし始める。自分の心臓の音が、滝のように響く水音に重なるようにして耳の奥を突いた。背を伝い流れていく感覚があるが、おそらく自分自身の血なのだろうと思った。
 涙と貧血で霞む視界に、それでもサンジはゾロを映した。決してゾロから目を離さずに、ゾロの両腕に爪を立てて、痛みと震える体をやり過ごす。
 強く縋るごとにゾロの抱きしめる力も強くなる。
 吐息が触れ合う距離で互いの目を見つめたまま、どくどくと脈打つ心臓の音も合わさった胸から混ざり合った。
 
「この病気がわかった時、どうしてチョッパーを探さなかった」
 やおら落ちてきたゾロの言葉に、サンジの青い目が揺れた。返事はないが、ゾロの言葉を聞き漏らすまいとするかのように、瞳の奥に宿った光が必死に見つめ返してくるのを確認してゾロは言葉を続ける。
「どうして俺を遠ざけた」
「丁度鷹の目の噂が流れてきた時だったな……俺がチャンスを諦めちまうと思ったか?」
「自惚れんな」
 
 互いの熱い心臓の音にサンジが生きていることを感じながら、ゾロはその痩躯に手を這わす。
「いや、自惚れろ…か?当たり前だろ、行くわけねぇ。だが」
 
「見くびんな」
 自分の元から永遠に離れていこうとしていた体。その存在を繋ぎ止められたことを、夢じゃないのだと強く抱きしめる。
 ともすれば震えそうになる体を、叫び出したい胸のうちを抑えているのは、本当はどっちだと思っているのだ。
「惚れた相手の命掛けねぇと叶えられないような、そんな野望じゃねぇ!!」
「…ロ、ごめ……」
 途切れ途切れにサンジが呟いた。
 わかっている。野望を、夢を、自分が枷になったくらいで歩みを止めてしまうような相手ではないことぐらい。
 あの時の自分の弱さを、サンジは悔いた。
 次から次から溢れてくる涙をゾロが唇で拭う。鼻をすすりながら、サンジは身を任せるように目を閉じた。
「……こんな顔させたい訳じゃねぇって言っただろうが」
 サンジの後頭をぎこちない動作で重い手の平が撫でる。
「アホ面晒して笑ってろ」
 どこかでも聞いた台詞に、サンジは小さく苦笑して目を開けた。
 その時、体の奥深くにズキンと突き刺すような痛みが走った。
「うあッ!」
 ずるり、何かが背を抜け出ていくような感触にサンジは叫んだ。
 背は強烈な痛みと熱と伴っているのに、まるで神経の大元を撫でられているかのようにずるずるとそれが抜け出すのに合わせて、指先までぴりぴりと凍えるように震える。
「出た!コイツだよ!ゾロッ!!」
 チョッパーの手が何かを摘まんでサンジから引き抜いている。そしてそれが姿を現した。
 ピン先にぶら下がるのは真っ黒い心臓のような、四方に不規則な触手を伸ばして蠢く海草のようなもの。
 真っ赤な血に濡れてぬらぬらと蠢く様はまるで悪魔の様だ。
 それは自分の姿が白日に晒されたと知ると、急に四肢をくねらせて暴れ始めた。そしてピンセットに掴まれていた部分を自らちぎり取るようにして振り切ると、ビュッと逃げ出した。
「あッ」
 風呂場の天井付近に飛んだそれを、ゾロの腕が追った。サンジを抱いていない手で浴槽の外に立てかけてあった白鞘を掴み、目にも止まらぬ居合を放つ。
 壁にぺとりと張り付いた途端、着地地点に飛んできた斬撃にその体は切り裂かれ、ドロリと溶けるように床に落ちた。衝撃を受けたタイルにもガッと縦に深い亀裂が入り、破片が落ちる。
 落ちた赤黒い物体は、そのまま溢れたお湯とともに排水溝に消えていく。
 サンジの体を蝕んでいた、あれが黒い花の正体だ。
 それを黙って見届けていたチョッパーが大きく息を吐いた。
「ゾロ、もう大丈夫だ…!湯から上がって、ベッドはあるかな?つ、次は輸血しなくちゃ…」
 サンジの傷口の止血をてきぱきとこなしながらチョッパーが、いつのまにやら顔中を涙と鼻水だらけにしている。緊張が解けたのだろう、医者の顔から普通の仲間の顔に戻りかけているチョッパーにゾロは苦笑した。
「まだ終わりじゃねぇんだろ。ドクター」
「うん。で、でもだっでサンジ…!うぐッ」
 青い鼻から垂れる鼻水を拭いながら、チョッパーが立ち上がった。
 サンジはと見れば、いつの間にか気を失ったらしくゾロの肩口に顔を預けてくったりとしている。
 血の気を無くして顔は青白い。けれどたしかに腕の中にある存在に、ゾロは小さく口付けた。





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