だからその手を離さない 8
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 ガンガン!
 荒っぽいノックの音に、サンジははっと我に返った。
「誰だ…もう夜中だぞ、クソ」
 出ないでおこうかと思ったが、ガンガンガン!とノックはドアを叩き壊さん勢いで続いている。尋常じゃない様子、何かあったのだろうか。非常時に駆け込んで来たことのある近隣住民の顔を思い出して、サンジは重い体を持ち上げた。
「……っと、これじゃまずいな」
 見れば血にまみれたカバーは凄惨な有様で、自分の手も、衣服の所々も血で汚れてしまっている。まるで今ここで殺し合いでもしたみたいだ。
「あー…悪ィ、ちょっと待って――…」
 階下が一望できる壁際から半身を乗り出し、玄関に向かって言い終わらないうちに、キン!と衝撃がドアを斜めに走った。
 サンジは息を呑んだ。その、覚えのありすぎる斬撃。クロス切りされたドアが4つの木材になってガラガラと崩れ落ちる。
「………」
 呆然とするサンジを、その扉の前に立っていた人物のまっすぐな視線が射抜いた。
 背負う闇夜に人物の輪郭も朧に溶けているが、その目の光だけは確かにサンジを捉えていた。
 何も言わない、けれど全てを貫くような獰猛なその瞳に全てが曝け出され、まるで鎖に絡め取られたようにサンジはその場で身動きも出来なくなる。
 長旅にくたびれて薄汚れた衣服。前を開いた黒いシャツからのぞく、浅黒く隆起した筋肉質な両腕に、胸の傷。腰にさした刀は3本……しかし白い刀以外は既に見知った色の鞘ではなかった。
 無精ひげの散った精悍な顔立ちは10代の頃のあの無鉄砲な強さとは違い、重くどっしりとした威圧感を備えていて。
 
「ゾ……ロ」
 サンジは呆然と唇を震わせた。
 開け放たれたドアの外、暗い夜空にぱっと散った花火がゾロの顔を浮き上がらせた。
 ここに絶対居るはずのない相手。
 もう二度と見ることはないだろうと、諦めたはずのその姿。
 先ほどまでここに居たあのゾロではない。今日まで同じ時間を生きてきた、この世界のゾロ。
「なんで……」
(どうしてここに――お前がいるんだ)
 立ち尽くすサンジに、ゾロが小脇に抱えていた丸い荷物がじたばたと暴れて叫んだ。
「サンジ!!」
 懐かしい声に目をやれば、もこもこした塊はチョッパーだった。船を離れて久しぶりに見るその茶色の毛並みは年を重ねても何一つ変わっていない。
 回らない頭で、それでも何か言わなければと口を開く。その前にチョッパーが焦った顔つきで声を荒げた。
「……血の匂いがする!サンジ、どうしたの、まさかホントに!」
 その言葉に目が覚めた。弾かれたようにサンジはばっと身を翻すと慌ててソファに戻り、血にまみれたカバーを丸める。
 隠し事がバレた子供のように、動きを止めていた心臓が急にガンガンと鳴り出した。
 怖い。何故か焦り出す心臓に、酸欠に陥ったように、思考がまとまらなくなる。
(なんだよ怖いって!アホか!あの腹巻相手に何ビビってやがんだ、いつものあの調子はどうしたんだ俺!笑って、皮肉って、誤魔化して、そしてまた追い出せばいいだろう!)
 だってゾロにはバレてない筈だ。1年前に散々な物言いで喧嘩して、別れて、それきりだったはずなのだ。ゾロだけじゃない。陸に上がって久しく会っていないメリー号の仲間にも、こんな病気にかかっていることなど、露ほども気づかせていない。
 叱咤するが情けないほど動揺した体が言う事を聞かない。
 このカバーをどこに隠そう。そうか風呂場に……きびすを返した所で、目の前に既に階段を上って来ていたゾロがいて、ぎくりと足が止まった。
 ゾロの腕の中から抜け出したチョッパーが、サンジが手に抱えた血染めの布を見咎めた。
「サンジ!その血は!?」
「あーこれは…ちょっとここで屠鳥をしていてだな。ホラ、明日の仕込みの為……」
 咄嗟に笑顔で話出せた自分の、良く回る口に感謝した。
 するとゾロが何も言わないままゆっくりと近づき、すっとサンジの顔に手を伸ばしてきた。
 浅黒く日焼けした、太い腕。ごつごつと骨ばったでかい手は、きっとサンジの首くらい一握りで潰してしまえるだろう。
 本能的に逃げそうになった体を気力でぐっと踏みとどまらせ、何すんだオラ、という気迫を繕って睨みつけた。
 ゾロの目はそんなわずかな抵抗などものともせず、静かに怒りのような、もっと深い何かを奥底に揺らめかしたままの揺ぎ無い視線でサンジを見つめた。
 右手が頬に掛けられた。その熱くて硬い感触に、背筋にゾクリとしたものが走る。
 ぐいと太い親指に口元が拭われる。ゾロの目線が落ちるのに合わせ、サンジの目線もゾロの指先に合わせられる。
 指先に赤い色がこびりついていた。
 濡れた赤い血。サンジが吐血した際の、なごりだ。
 ゾロが顔を上げて、ゆっくりとサンジの目を見つめた。
 カッと顔に血が上った。
 瞬間サンジは悟った。ゾロは知っているのだ。
 何もかも。屠鳥だなんて浅はかな嘘を重ねる自分の姿を、醜態を。
 気づいたらサンジはゾロの前から逃げ出していた。
 身を翻して脇をすり抜けようとするその腕を、ゾロの逞しい腕が捕まえる。
「離せ!」
 予備動作なしに右脚を上段に思い切りぶち込んだ。しかしゾロはもう片方の手でやんわりとそれを受け止めると、そのままグイっと体を引き寄せてサンジを抱きしめた。
 間合いがゼロになって足技が繰り出せないので、サンジは体を捻り、足や手を無茶苦茶に振り回して暴れた。
 しかしサンジの背を抱えたゾロの、仁王立ちした体勢は揺らぎもしない。虎が子ウサギを狩るように易々と捕らえられたまま、ゾロの手がサンジの顎に掛けられた。
 クイと上向きにされたその動作から予想される次の行動に、サンジは血の気の薄れた顔を益々青ざめさせた。
「だ、駄目だッ……!」
 引きつるように叫ぶと、近づいたゾロの顔を押しのける為に手を振り上げる。その両手首をぶっといゾロの手がひっ捕まえて、逆にぐいと体ごと胸元に引き込まれた。
 あ、と思ったその瞬間にはもう唇が重ねられていた。
 熱い吐息の零れる少しかさついた唇が、荒々しい勢いでサンジの唇をこじ開ける。
 させるもんかと食いしばった歯は、ゾロが頬を片手で挟みこみ顎の間接部分を無理やり押し広げて開けさせられた。
 その隙間から、ゾロの舌がぬるりと入り込んでくる。
 サンジは絶望感に目を見開いた。
 この病気は感染ルートもわかっていないのだ。
 性交は勿論、キスなどからも移ってしまうかもしれない。手を介しただけじゃ移らないことは昔の同僚から聞いているが、誰かの口に入る料理を作る行為もいつのまにか倦厭していた。
 ゾロを遠ざけたのも、自分の醜態を見せたくないというよりは、この黒い死の病をいつその身に移してしまうかもしれない恐怖があったからだ。
 なのに。
 ゾロの舌が容赦なくサンジの口腔を荒らす。
 先ほど自分の嘔吐した血液が付着したままのそこを舐め取っている。
 サンジの背筋が恐怖で凍った。
「やめッ、汚れる!……テメェに、移っちまう!!」
 渾身の力でゾロの手を振り解き、叫んだ。
 見開いた目の端を、ポロリと何かが零れ落ちて行った。





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