だからその手を離さない 7 |
ドーンと響く音が遠くに聞こえる。ぱあっと咲き散る艶やかな夜の花。 一玉ずつに思いを込めるように、ゆっくりとそれは打ちあがってゆく。 誰も居ない部屋にひとりソファにぐったりと沈みながら、サンジの目は静かにその光を映していた。 さっきまで2人分の熱を有していた空間には、1人に戻った途端にガランとした途方もなく広い空しさのみが残されている。 サンジはシーツに顔を押し付けたまま、虚ろな目線で窓を見やった。 「すげぇ……」 ぽつりと、唇が震える。 「どうしよう…すげぇよ……」 まさか今日、こんな形でゾロと会えるなんて思っても見なかった。 窓の外、一望できる湾の上、夕闇にきらきらと光の花が散って行く。 オールブルー最後の日。 それを惜しむ祭りの最終日だ。 この日を境にオールブルーは死ぬ。いや元に戻る…と言った方がいいのか。 たくさんの海流が交差するこの海域は、その中心にある窪みのようなこの湾にさまざまなほころびを残して行く。 粗い岩壁の合間に小さく口を開けた唯一の入り口から、この入り江に何かの偶然で入り込んできたもの…それは温度の違う海流であったり、生物であったり。そしてその偶然に入り込んできた環境に、偶然適応した魚や生き物が育ち…いろんな綻びがたくさん、たくさん溜め込まれやがて『オールブルー』と呼ばれる姿までに成長するのだ。 ある海流でしか育たない生き物が育つ傍ら、その海流の届かないはるか遠い海でしか見られない魚が生息していたり……奇跡の海・オールブルーはその伝説の通りに様々な命をその腕に内包して波打っている。 しかし溜め込まれ続けたものは、いつかいっぱいになりすぎて弾けてしまう。それは湾の中に入り口があっても外へ流れ出て行く大きな潮の流れがないからだ。 生き物がたくさん住みすぎて、飽和状態になる――海流が淀みすぎて温度上昇、酸素欠乏という状況になるのだ。 魚たちが少しずつ湾に浮かぶようになってきたら、それが限界の合図だ。昔は全てが死に絶え、それが少しずつ浄化され、再び奇跡の海に戻るまで随分長い自然の時間を要したらしい。 しかし今ではこの町の学者が計測して定めた「オールブルー最後の日」に、町の人間の手で作られた海門が開けられることになっている。 この湾に今出来上がっている『オールブルー』を全て外の海に流すのだ。そしてまた、新しい奇跡の海が作り出されるのを待つ。 「次の海ができるのは…早くて3年、大体5年くらいって言ってたな…」 ドーン。 一際大きな花火が打ち上げられ、ソファに沈んだサンジの頬を染めて行く。 「……ゾロ」 久しぶりに口に乗せた、その名前。 噛み締めて、サンジはふわりと笑った。 先ほどまで自分の肌を辿っていた感触を思い出しながら両腕で自分をそっと撫でる。 抱きしめた両腕が震える。 これはどうしようもない喜びのせいだ。 「…すげ、神サマってやつ、今なら信じられそうだぜ」 震える手で、ぎゅっと両肩を抱きしめて背を丸めた。 下半身はボトムを履いたもののぐしゃぐしゃで気持ち悪いが、まだゾロの名残の残るこのソファからは動きたくなかった。 ありえないくらいに女々しい自分に、別の意味で笑いが込み上げた。 シーツにうずめた頬が、いつしか熱い雫で濡れている。 ――もう会えないと、思っていた。 他愛も無い喧嘩をきっかけにして、その覚悟でアイツを追い出したのはいつだっただろう。 風の噂で、遠く南の大陸で新しい大剣豪が誕生したと聞いた。 それを聞けただけでも、もう思い残すことは無かったのに。 アイツの声を聞いて、体に触れて、我慢なんてできなかった。 例えそれが自分のよく知るゾロそのものではなくても、いつも傍にあったあの強い眼差しを見たらもう駄目だったのだ。 気づけば縋るように手を伸ばしてしまっていた。かつてあの指を跳ね除けたのは自分なのに、プライドもなく浅ましくゾロを求めてしまった。 「グッ、う…!?」 突如胃の方からムカムカと込み上げてきたものに、サンジは体を強張らせた。 (ヤバ、こんなところで…) せめて風呂場にと思う意思に反して、ざっと体から血の気が引いて行くのがわかった。 胃の奥の方からせりあがる嘔吐感に脂汗が滲む。胸を圧迫する塊に、呼吸が押される。 ぐにゃりと視界が歪み、全身ががたがたと震えだす。意識を保っていられるように、冷たく震えが止まらない指先でぎゅっと毛布を握り締めた。 「あ…ガ、ハッ…!」 堪えきれなかったサンジの口元から、赤黒いゼリー状の塊が吐き出された。びしゃりと薄いソファカバーの上でつぶれたその上に、次いで鮮血がどっと溢れてくる。 逆流してきたものが器官にも入り込み、げほッ、げほッと咳き込みながら、サンジは次々に溢れてくる苦いものを全て吐き出した。 口中に広がる鉄さび独特の匂いの中、僅かな酸素を求めてむせ返りつかえながらも荒い呼吸を繰り返す。 「ぐッ…はッ、はぁ……」 口腔内に残った血の味も唾と一緒に全て吐き出してしまうと、せわしなく酸素を吸い込みなんとか呼吸を落ち着ける。 苦しさに自然と溢れてしまった涙を拭うその指先はまだ冷たく震えていて、まるで自分のもじゃないみたいだった。 きらきらとしたものに目を上げれば、窓の外ではまるで終わることを知らない夢のように花が咲き誇り、そして美しく散って行く。 サンジは薄く笑った。 血の匂いにつられて再びぼんやりと手元を見れば、一面の赤。 吐き出したものに固形物はほぼなくて、ドロリとして赤い鮮やかな液体は血液そのものと言ってもよかった。 『黒花』 または死に花と呼ばれ、不治と恐れられるその病に気づいたのは、昔バラティエで働いていた見習コックの彼女に同じ病が出ていたのを知っていたからだ。 ある日体のどこかに真っ黒い、痣のようなものができる。そしてその頃から嘔吐によって黒いゼリー状のものを吐き出すようになる。 一枚の花びらのようなその痣は、日を追うごとに一枚、二枚と増えて行き、それが一つの花のような形になる頃には吐瀉物はゼリー状を作らなくなり、それがまったくの鮮血しか出なくなった頃、やがてその人間は死を迎える。 宿主の命を吸って黒い花は咲くのだと、誰かが声を潜めて言っていた。 おそらく抵抗力がなくなることの現れなんだろう。怪我をしたらかさぶたができるように、きっと悪い病原体みたいなのを体がゼリー状の物にして吐き出させようとするのだ。 そしてそれすら出せなくなった頃、花に蝕まれ弱った体は……。 その見習コックは方々の医者を当たった末、彼女を故郷に連れて行くと言ってバラティエを旅立って行った。 皆に励まされ、白いドアをくぐっていった彼の後ろ姿を、おぼろげにだが記憶している。 オールブルーを見た。夢の叶った仲間たちの姿も、全部見ることが出来た。ゾロのはまぁ見たとは言えないが、よしとしよう。 死ぬのは怖くない。けれど、こんな姿で縋るような態度を、ゾロに見せたくはなかった。 唯一焦がれていた、緑頭のあの鷹揚とした態度。もう二度と見ることが叶わないと思っていたゾロの姿。 それすら今日、叶ってしまった。 夢の終わりを、どうも自分はこんな形で迎えられるらしい。 笑みをたたえたままの青い瞳を、サンジはぼんやりと窓の外にさ迷わせた。 ああ、どうせなら今日あのオールブルーと共に、この体も、想いも、全て。 流してしまおうか。 海へ。 |
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