だからその手を離さない 6
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 気づけばゾロはGM号の甲板に突っ立っていた。
 頭上に広がるのは真っ青な空。日の光がサンサンと降り注ぐ、見渡す限り一面の…海の上だ。
 ガタン。
 物音がして振り返ると、倉庫から出てきたらしいサンジが、手にじゃがいもを抱えて呆然と突っ立ていた。短い金髪、青地にストライプの開襟シャツにいつもの黒いパンツ。
 今にも零れそうなほど見開いた青い目が、ゾロを見つめている。
 海とも、空の青さとも違う深い色だ。なんてゾロが黙って見つめ返していると、その青がじわりと揺れた。それがさっきまで手の内にいた泣きそうな目をした未来のサンジを思い出させ、再びゾロの胸に小さな火がくすぶる。
 小さくコックの唇が震えた。なんだ、とゾロが小さく歩みを進めようと思った間に、みるみる呆けていた青い目に力が戻り、ギロリと凶悪に眇められ、こめかみあたりにビキっと青筋が立った。
「てめぇッ!一体どこほっつき歩いてやがったんだこのクソ迷子ヤロウが―――ッ!!!」
 グオッと空気圧が動いたと思った途端、腹に重い圧迫感と共に体が浮いた。ドガァン!と大きな音。
 数日ぶりに体感する凶悪な回し蹴りによって、ゾロはメインマストに叩きつけられていた。
「……コック」
 重く痺れる腹をさすりつつ、ひたすら目の前でふーふーと怒りの収まらぬまま「あークソじゃがいも転がっちまったじゃねぇか」とぶつぶつ言っているサンジを見つめた。
「あ?何アホ面ひっさげてやがんだ。」
 ガツンとこっちにガンくれながら、胸元から取り出した1本に火をつけてスパーッと吹き上げる。
「……コックだな」
 戻ってきたのか。そう確認した途端、はは、はははははッと知らず込み上げてくるものに豪快に笑い出してしまい、
「やべぇ、強く蹴り過ぎたか」
とゾロはサンジに気味悪いものを見るような目で見られてしまった。
 
 
 
 どうやらクルーはあの嵐の日から夜を徹してゾロを探していたらしい。近くに島はない為に潮の流れを辿り、ひたすら海の上に目を凝らして探していたのだという。
 あの世界に飛ばされて2日が経っていた。
 騒ぎに眠い目をこすりながら起きてきた仲間に散々どこを泳いでいたんだと質問攻めにされ、何と言っていいものか解らないので流れに任せて寝ていたんだと適当に答え、怒られたり呆れられたり。
 朝食を取ってろくに寝ていないクルーが安心したような顔をして再び各自の部屋に戻っていくと、キッチンには片付けをするサンジとゾロのみが残された。
 シャツの背を向けてシンクに両手を突っ込んでいるサンジの腰に、ゾロはおもむろに手を伸ばした。
「おい、止せ。俺は今仕事してるんだ」
 しかしそれ以上蹴りが飛んで来るわけでもなければ、これといった抵抗もない。それは了解も同然なので、ゾロは両手を動かして皿を洗っているサンジを背後からぎゅうと抱きしめた。
 まだ朝早いせいか、汗と共に昨晩の名残なのだろう石鹸の匂いがした。
 首筋に鼻先を埋めて思う様その匂いを嗅ぐと、ゾロは大きく息を吐いた。
「なんだなんだ、2日の放浪で随分弱ってやがるな。らしくねぇ」
 おうちが恋しくて堪らなかった犬の様だとからかわれたが、結構その通りだったので、ゾロは何も言わず黙ってサンジのシャツをたくし上げた。
「ちょ、おいこら待て!エプロンくらい外せッ!テメェ一体どこのマニアだこりゃ!横着すんな!」
 ちょうちょ結びを解くのが面倒で、エプロンの下から青いシャツだけを引っ張り出していると、焦ったサンジの訳の解らない罵りが飛んできた。
 構わず無理やり首元までシャツを押し上げ、ゾロは現れたその白い背中をしげしげと見つめた。
 ピンクのエプロン紐の間から真っ白い肩甲骨がのぞく。袖を抜かずに引っ張り上げたシャツのせいで微妙に身動きが取れないサンジがもがく度に、その骨が動く。
 敵を前にしたような真剣な目線で油断なくそれらを眺め回した後、ゾロは念の為黒いボトムから伸びる背骨から脇腹、肩に至るまで全てに目をこらした。
 きめの細かい肌にはしみ一つなく、唯一あるのはドラムロックで手術されたという傷跡くらいだった。
 ゾロはほっと息を吐き、目の前でちらちら動く白い背にがしっと歯を立てた。「ぎゃッ」と間抜けな声が上がり、ピンク色の歯形がその場所に浮かび上がる。
 他の部分も後でじっくり確かめようと心に決めて、ゾロは暴れるサンジの体をぐるりと向かい合せにひっくり返した。
「な、何がしたいんだテメェは一体」
 濡れた手で首元に溜まったシャツを引っ張りながら、サンジがぐる眉を吊り上げる。
 言う気にはなれず、ゾロはじっとサンジを見つめた。その真剣さに気圧されたように黙りこんだサンジにやわらかくキスをすると、ゾロは再びサンジを抱きしめた。
「…おい……?」
 戸惑ったように小さく身じろぐ体。
 逃がさないというようにゾロが腕に力を込めると、やがて諦めたのか力が抜ける。
 
 
 心臓の真裏くらいにあった、黒い花のような跡。
 入れ墨かと思ったがそうではなかった。肌の内部から鬱血したように浮き上がっていたそれは、サンジの白い肌を蝕んでいるようで、見た瞬間冷たい血が腹の底に溜まるような嫌な感じがした。
 それに加えて、実は目覚めて1番初めにサンジを見た時感じたことがあった。
 初めは遭難しかけて体内の感覚が狂い、間違えたのかと思ったが、あの花を見た時それが確信に変わった。
(微かにかぎ分けられた……あれは)
 
 ――死臭、だった。
 ゾロのように多くの血を流し、獲物を追い詰めた経験のある者がいつしか感覚で嗅ぎ分けられるようになるもの。
 深手を負った獣がひっそりとその時を待ちながら放っているもの。底知れぬ闇の淵に引っ張りこまれようとしている人間が、うっすらと漂わせているもの。
 本来「気」から放たれる生命のエネルギーとは真逆の気配。
 その死の香りがしたのだ。あの未来の、コックからは。
 ゾロは見えない敵を射殺す様に、ぐっと虚空を睨みつけた。
(……絶対に、離さねぇぞ俺は)
 ゾロは手の内にある暖かい体の存在を確かめるように、力を込めて掻き抱いた。
「………」
 ただ自分を強く抱きしめるゾロにサンジは困ったように眉を寄せると、そっとその背に自分の両手を回した。
 
 
 ***
 
 
 ギシギシと重い音を立ててマストを登ってくる音がする。夜はもう深く、見張り台に毛布に包まってうとうとしかけていたチョッパーはその気配にハッと目を覚ました。
 この時間は、夜食だ。そう思いつくとついつい頬も緩む。
 しかし予想外にひょこりと見張り台に顔をのぞかせたのは。
「……あれ、ゾロ?」
 目をこすって確認するチョッパーに苦笑して、ゾロは片手に持っていたバスケットを突き出した。その中に詰められた色とりどりの野菜がサンドされたバゲットに、途端にチョッパーの目が輝く。
「サンジはどうしたんだ?」
「あー…なんか手が離せねぇとかで。俺も丁度お前に用があったし、預かった」
 実際のところゾロが昼間心に決めたように体の隅から隅までを点検していたら、うっかり熱が入りすぎてコックの足腰立が立なくなってしまったのだけれど、むぐむぐと口いっぱいにほお張ったままきょとんと小首を傾げるトナカイに説明できる事情ではなかった。
 ふぅんとチョッパーは頷いて、そして今度はゾロを見あげた。
「で、なんだ?俺に用ってのは。具合でも悪いのか?」
「……ああ、実はちょっとばかり聞きてぇことがあるんだが…」
 
 
 メリー号が停泊する海の上には、嵐があったことなど嘘のような満天の星空が広がっていた。





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