だからその手を離さない 1
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 それはひどい嵐だった。
 ナミが風を読む前に、突然沸き起こった暗雲がGM号を飲み込んだ。小さな羊船を右から、左から、なぶるように高波が襲い、クルー全員が雨と海水にもみくちゃにされた。
 GL特有の海域が成せる技なのかは知らないが、轟々とさかまく風は容赦なく甲板に体を打ち付け、深く暗い海にメリー号を飲み込もうと咆哮をあげる。
 ナミの指示の下海水に強い能力者意外の人間、主にナミとウソップが船の舵を取りに走り、体力のあるゾロとサンジが帆の補修に走った。
 普段酷使してきたせいでガタがきていたらしく、左舷の帆が嵐にもまれるうちにばっくりと破れてしまったのだ。
 片側にしか風を受けられなくなった帆は、GW号のバランスと舵の方向を狂わせる。迷っている暇はなかった。
 真っ黒な雲の間を稲妻が走る中、ざぶんざぶんと小さな虫を振り落とさんばかりに揺れるマストにしがみついて、格納庫から持ってきた補助布で破れ目を覆いロープで縛り直す。2人で上下に分かれ、張ったとたんに風をはらんで流れようとする布を持ち前の体力で繋ぎとめて、必死にその布をマストに繋いで行く。少しでも気を許せば風圧で自らの体もあっという間に押し流されてしまうだろう。
 それでもなんとか最後のロープをメインマストにぐるりと巻きつけた時だった。
「ゾロ!!」
 誰かが叫んだと同時に、しっかりと結わき目を括っていたゾロの視界が真っ白になった。
 痛みや熱さのレベルを通り越した何かが、五感では捉えきれないほどの情報量を持った力が全ての感覚を一瞬で攫い、麻痺させ、全身を焼き貫き。
 そして一瞬の遅れを伴って、ズガァンと鼓膜を震えさせる落雷の音を、ゾロは真っ白くかすむ意識の中で聞いた。
 
 
 
 ***
 
 
 
 ふわりと、意識が浮上した。
 音が。
 遠くでタンタンタン、と静かに小気味よい音が続いている。どこか懐かしくて心地よい、優しい音だ。
 耳が少しずつ音を捉えていくにつれ、ぼんやりと自分というものが戻ってくる。
 ほんわりと漂う、あたたかな空気……これはそう、飯の匂いだ。
 すん、と鼻から入る匂いをより明確に意識した途端、ぐぅと腹の虫が鳴いた。意識を待たず、体の機能は既に目覚めているらしい。
 そういえばぐつぐつと何かを煮込む音もかすかに聞こえる。
(どこだ…ここぁ)
 うっすらと開いた視界がちかちかと瞬く。脳震盪でも起こしていたのだろうか。情けない。
 ぴくりと手先が痙攣した。手の平に柔らかいシーツの感触。それによってゾロは自分が未だ力の入らない全身をベッドに横たえられていることに気づいた。動かした指先から広がるように、全身のいたる所がぎしぎしと痛む。
 背にあたる柔らかなスプリング、そして顔のぎりぎりまで掛けられた柔らかな布団の感触は、メリー号は勿論ここ最近立ち寄った島の安宿でも味わえなかったものだ。
 ゾロは慎重にぐるりと視線だけを巡らせた。
 どうやら夕暮れのようで、薄暗い部屋には枕もとにある窓のカーテンの隙間から西日がさしこんでいる。穏やかな木目の天井、そして同じく木彫の質素な家具のしつらえてある小さな部屋だ。
 揺れないことから陸地であることは間違いない。
(船は、どうした…)
 あの嵐の中、おそらく自分は雷に打たれたのだろう。全身の感覚を全てもっていかれたことと、間髪入れず爆発のように大気が震えた音がしたのを覚えている。
 その時におそらく海に放り出されて、どこかの島に漂着して…もしくは漂流中のところを運良く住民に助けられたといったところだろうか。
 他のメンバーの安否は…実はこういう場合あまり気にならない。奴等なら大丈夫だ、という不動の気持ちがあるからだろうが、それよりも自分がメリー号に合流できるかどうかの方が深刻な問題だ。
 ナミの予測の範囲内を超えて漂流していた場合、自分一人でメリー号を探し出せるかというとそれは世界地図を前にした子供のようで……まぁどっか陸地の端っこから歩いて行きゃあいつかはぶつかるだろう。元々騒ぎが絶えず目立つ船なのだ。
 ゾロは大きく息を吐いた。考えていても始まらない。
 腹に力を入れて上体を起こすと、ベッドから降り立つ。ぎしぎしと間接が軋む感じはあるが、体は思ったほどの怪我はしていないようだ。
 ゾロ一人の体重ではかすかにしか揺れないスプリングと大きさを持つこのベッドからして、この家の主人は夫婦ものなのかもしれないと思いながら、部屋に唯一ある窓の、閉じられていたカーテンを開けてみた。
 瞬間目を射したのはきらきら反射する眩しいオレンジ色。
 ゾロは目を眇めた。
 海だ。
 この家は随分と小高い丘の上にあるらしい。眼下に広がる明かりを灯し始めた町並のその向こうに、目を射す原因となった水面が夕日を見事に揺らして光り輝いていた。
「海…か?」
 入り江や湾と言った方が言いのかもしれない。町を正面に双方から伸びた陸地続きの岬が円状に海を囲んでいる。
 岬と岬の間には遠目にもわかるでかい水門が閉じられており、巨大な湖のような海だ。よく見れば岬とその水門の向こうにはさらに広い本物の海が広がっており、その丸い水平線の全貌は闇に溶けはじめていて既に見えない。
 と、背後に人の気配がした。カチリと部屋の明かりがつけられる。
 ゾロは振り向き……そして、ア?と間抜けにも口を開けて固まった。





*2へ*



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