もしかしてパラダイス 1 |
麦わら海賊団の船において、サンジの朝はとても早い。 朝食の準備の為、バラティエで培ってきた長年の体内リズムをそのままメリー号でも活用しているからだ。 男部屋を出るのはいつも、空が少しずつ透明さを増して海の表面がうっすらと白いもやでけむる、静かな時間だ。 空を仰いで息を吐けば、少し冷たい空気が肺に満ちる。風も穏やかで今日もよく晴れそうだ。 遠くの地平線を見ながら甲板を横切れば、マストの上からルフィのイビキが聞こえた。 やれやれと思いつつバスルームへ向かうのもいつものこと。 頭の中でざっと食材の在庫を思い出しながら朝食のメニューを揃えつつ、毎日の同じ手順で顔を洗い自慢の顎ヒゲと髪を整え、そして最後に鏡の前でニコリと笑顔をつくる。 鏡に映る完璧な自分の姿に、よし、と気合を入れるこれも、やはりバラティエ時代の癖だ。 前の日にどんなに嫌なことがあってぶすくれた顔をしていても、この瞬間に全てリセットする。 今日からはまた新しい自分。そしてお客様には本日も最高の笑顔とお料理を――そういった気持ちを入れ直すための儀式のようなものだ。 (まずは昨日練っておいたパンをオーブンにかけて、ハムと根菜でコンソメ仕立てのスープを……) 足取りも軽くバスルームの外へ出たところで、目の前でガコンと床にある女部屋の扉が開いた。 この船でサンジに次いで早起きなのが、ナミである。 よくこの時間かち合うことも多いので、サンジはいつものように満面の笑みを浮かべ……そのまま凍りついた。 扉から顔を覗かせた相手も、あ、の形に口を開いた間抜けな表情のままサンジを見て動きを止めた。 あんぐりと口を開けた間抜けなその顔は、愛しのナミのものではない。 意志の強い目に引き締まった唇。 ごつごつした輪郭に……なにより、見紛うことなきその緑頭。 サンジは目を見開いたまま、女部屋から顔を覗かせたゾロを見つめた。 ドキン、ドキン、と心臓が嫌な感じに音を立てる。 スウッと、全身から血の気が引くのが解った。 (…そう、か……) 突然突きつけられた事実に、怒りよりもショックの方が大きく、ぐらりと足下から崩れそうになるのを辛うじて耐えた。 日も昇りきらないほどの早朝、女性の部屋から出てくる。 その意味が解らない程、サンジも馬鹿ではない。 この船の女性陣が、合意でもない相手をみすみす部屋に引き入れてしまう事なんてありえない。だから、なおのこと。 「……ッ」 いつのまにそういう関係だったんだろうか。 お相手はナミさん…いやロビンちゃんだろうか? 本来なら「レディのお部屋で何してやがったテメェ!?」とゾロを甲板にまで蹴り飛ばすところなのに、サンジの足は固まったように動かない。 だってナミさんが、ロビンちゃんが、ゾロを選んだのなら。 そしてゾロがそれに応えたのなら。 元々叶うとも思っていない想いだったけれど、いつかふさわしい相手が出来たならそのレディの為にひっそりと応援してあげようとまで、思っていたけれど。 晴天の霹靂。 突然突きつけられた現実に、小さな覚悟なんて吹き飛んでいた。 まさか目の当たりにするのがここまでショックだとは思わなかった。 ―――ゾロが、誰かと付き合うなんて。 サンジの眉がへにゃりと沈んだ。 (ナミさん…かロビンちゃんか、二人とも辛い過去のあった人だ。いっぱい優しく、絶対幸せにしろって、言わねぇと…) なのにゾロに優しくされるナミやロビンを想像すれば、心がきゅうきゅう締め付けられる。 ああ、なんて醜い嫉妬だろう。 (ごめんよ、ナミさんロビンちゃん) しばらくはまともに目を合わせられそうにない。 だって。 (――俺、ゾロに惚れちまってたんだ…) きっと今自分は酷く情けない顔をしているだろう。 もう一度鏡の前からやり直しだ。 現実から逃げるようにバスルームへときびすを返しかけたところで、口を開けていたゾロが素っ頓狂な声を上げた。 「ちょっとルフィ、なによその格好!サンジくんの真似のつもり?」 朝の静寂に澄んで響く麗しい声が、きゃらきゃらと笑う。 「え……」 見ればおかしそうに笑い転げるゾロの顔。 ゾロはよいしょ、と体を全部引き抜くと女性部屋の扉を閉めた。 そこから現れた姿に、サンジはまた目をまるくした。 カツカツと床に響くヒールの音。 ゾロはサンジの目の前までやってくると、その豊満な胸の前で腕を組んで小首を傾げた。 「バスルーム使っていいの?ていうか悪戯ならそのスーツ早くサンジくんに返しときなさいよ」 「あの…」 サンジはごくり、と喉を鳴らした。 恐る恐る、目の前の存在の首から下を確認する。いやそれよりもまず自分が愛しの女神の声を聞き間違えるはずがない。 「ナミ、さん……?」 「え…?」 ゾロの目が丸くなった。 敵を前にした時には熱を帯びる茶色の目が、サンジを真っ直ぐ見つめて探るように細められる。 「……もしかして、サンジくん…なの?」 間近に迫るゾロの顔に呼吸を飲み込んで身動きも出来ないまま、サンジはハイ、と小さく頷いた。 「まさか本当だとは思わなかったわ」 早朝のキッチン。サンジが煎れたコーヒーをほっそりした指で持ち上げて、ロビンがゆったりと笑った。 「笑いごとじゃないわよロビン〜〜」 その向かいではナミがぐったりと椅子に腰掛けている。シンクにむかって朝食の準備をすすめながら、サンジは内心ドキドキしつつ二人の会話に耳をそばだてた。 あの後ナミ(いやサンジから見ればどうしてもゾロの顔なのだが)の叫び声で起きてきたロビンは、二人の様子を見てアラ、と何かに気付いたように目を丸くした。 いや目を丸くしたのはロビンだけではない。 サンジには女部屋から出てきたロビンもまた、ゾロの顔に。ナミにとってはそれがルフィに見えていたのだから。 そんな二人の様子に、「もしかして、効果がでたのかしら?」と小首を傾げた考古学者を、二人(主に腕を掴んだのはナミだ)がキッチンに連行したのは言うまでもない。 昨日、上陸した際に料理に使って欲しいとロビンから手渡された見たこともない果実。 島に着いたとはいえログが数日で溜まる為、船で寝泊りしていたクルーの食事にサンジは喜んでそれを使った。 赤くて甘い匂いのした、手の平くらいのラズベリーに似た実だった。その甘酸っぱい味をソースに活かして、食後のデザートのムースにかけて出したのは昨晩のこと。 「おまじないというか、ちょっとした遊び心で使うものだったらしいわ。それから…寂しいときなんかに」 素敵だと思ったのだけれど、と笑うロビンの笑顔はさぞ美しいことだろう。 いつもの癖でその声に釣られるように振り向き……サンジは慌てて顔を反らして切っていた野菜に目線を戻した。 だってコーヒーを持ちながら優雅に笑っているのはゾロなのだ。 その首から下はほっそりとしたロビンというシュールな映像なのだが、それよりもそのゾロの表情に嫌な汗がにじむ。 多分ベースにロビンの表情があるからなのだろうが、穏やかにどこか知的に微笑むさまは普段の剣士からは想像もできないもの。 サンジを捉える目線にまでも、大人の余裕が感じられるというか……とにかくありえない。普段のマリモからは逆さにしたって出てこない表情なのだ。 その気持ちの悪さに、さっきからお腹のあたりがもぞもぞして落ち着かない。 「寂しいとき……ねぇ」 やはりゾロの顔をしたナミが、どこか諦めたように小さく溜息をついた。 「例えば遠く離れてしまった恋人を思い出したい時に食べるそうよ」 「……そんなの、余計寂しくなるだけじゃないの」 島に自生する、不思議な実。 その実を食べたものは、見るもの全てに今自分の心を占める者の姿が投影される。つまり。 (目の前の相手が全て、好きな相手の顔に見える実……か) その事実に、サンジの背に再びたらりと汗が流れた。 ナミとロビンの顔が、ゾロに見える……なんて。もう、いい逃れしようもない。 まさかここまで真正面から、自分の気持ちを突きつけられる羽目になるとは。 (……ううううう) いたたまれない。いたたまれなさすぎる。 恥ずかしさに、今すぐ頭を掻き毟りながら甲板を駆け回りたい気分だ。 その衝動を誤魔化すように目の前の野菜を鍋に放り込んだところで、うんざりしたナミの声が聞こえた。 「で、何日くらいで戻るの?」 そうだ、それはサンジも聞きたいところだ。 思わず手を止めてロビンを振り返ったら、目線に気付いたゾロ(にしか見えなロビン)にニコリと微笑まれた。 その見慣れない表情にぶわっと背筋の毛が逆立つ。 が、なんとか堪えて対レディ用の笑顔を返す。これはゾロじゃない、レディだ、レディ…… ブツブツと内心呪文のように繰り返しているサンジの前で、おっとりとした表情でゾロが笑う。 「量にもよるけれど大体1日くらいだと言っていたわ」 「1日ね…」 ログが溜まるまであと2日だ。この島を離れるまでには元に戻っているということか。 ナミは溜息をついたあと、何かを決心したようにグイッとコーヒーを飲み干した。そしてギッとサンジの方を向き直る。 「いい?サンジくん、私のこのルフィに見えるってことは、他の奴には絶対ナイショだからね!」 どことなく赤い顔をしたナミ(サンジには恐ろしいことに頬を染めたゾロに見える)がサンジを睨んだ。 「も、勿論だよナミさん〜」 クソゴムめ、ナミさんのハートを奪いやがってちくしょう、と呟くのを忘れない。 けれど内心は勿論、それどころじゃない。 幸いサンジの目に二人がどう見えているかはバレていないようだが、彼女らの…いやこれから起きてくるクルー全てが多分ゾロの顔に見えるのだろう。ということは。 「そろそろ皆が起きてくるわね」 ナミの声に、サンジも気を引き締める。 そう、クルー全ての表情が、ゾロの顔によって表されるのだ。ありえない表情のゾロをこれから嫌というほど見ることになるのだ。 特に危険なのは、おそらくチョッパーだ。 あの純真無垢な表情を、ゾロの顔、で……。 考えただけでぞわぞわっと鳥肌が立って、サンジはぷるぷると頭を振って怖い想像を振り払うと、慌ててバターの香りが漂い始めたオーブンの中に意識を集中した。 最初にキッチンを訪れたのはウソップだった。 「カヤ……!?」 扉を開けるなりがぼんと目と口を開いて言った台詞は、みんなの予想する通りだったろう。サンジは会ったことがないが、よく話を聞く故郷に残してきたお嬢様の名前。 ニマニマ笑うゾロ…もといナミが事情を説明すると、ウソップはキッチンにいた3人の顔をしげしげと見つめてはーっと溜息をついた。 「こりゃ心臓に悪いぜ…って、こうなってるのはオレだけなのかよ?」 「……そうみたいね」 ちょっと言葉に詰まったナミとサンジの代わりに、やんわりとロビンが答えた。 ここでウソップが「サンジがナミやロビンの顔に見えてないなんて意外だ」とでも言おうものなら窮地に陥ったところだが、どうやらそこまで気が回らないらしい。 女神たちに申し訳なくて、サンジもあえてそこは触れないようにしているのだが。 ウソップはどこか放心したように、なおもじろじろとサンジたちの顔を眺め回している。 サンジとしてはゾロのあの不躾な視線でじろじろと眺め回されているようなもので、目線がかち合った瞬間思わずいつもの癖で「アァン?」と凄んだら 「サンジ、その顔でその表情はやめてくれっ!」 と悲壮な声で叫ばれた。 ……それはこっちの台詞だ。 次にキッチンに現れたのはルフィだった。 扉を開け放って弾丸のように飛び込んできたルフィは、迷わずサンジ目掛けてにくー!と飛び掛ってきたので、どうやら効果なしらしい。 絡み付こうとしたゴムを寸でのところで思い切り床に沈めてやれば、ルフィは微妙な表情で笑いあうクルーを見上げて不思議そうな顔をしていた。 しかし内心穏やかでなかったのはサンジである。 (あ、あぶねぇ…ッ) 心臓が、飛び出しそうな勢いでどこどこ鳴っている。 だって笑顔全開のゾロが、サンジに抱きつこうと踊りかかってきたのだ。 思わずぎゃあああと叫びそうになるのを何とか堪えて、反射的にルフィが巻きつく寸前で一撃を放ってしまった。 いつもと違う対応に、呑気な船長は特に不審がる様子もなかったが。 ナミはルフィの反応に、残念ながらもホッしていた。 「まだ希望はあるってことよね」 小さく拳を握り締めていた姿を、可愛らしいと思う。……その顔はゾロなのだが。 続いてとことこと入ってきたチョッパーも、特に問題なし。 「おはよう。……どうしたんだ?皆」 じっとチョッパーを見守るクルーにきょとん、と愛らしい顔で小首を傾げるその表情に、悶絶したのはウソップだけではない。 (こ、この実はヤベェ……) その効果を絶大に味わいながら、サンジはチョッパーからついっと視線を反らしてふるふると皿を持つ手が震えるのを抑えた。 あのゾロが、小首を傾げて、きょとんと。 まるで犬のように愛らしい(そう思ってしまう自分にまずショックだ!)表情で自分を見上げたのだ。 (ヤベェだろ……!) ゾロが自分に対して絶対に見せない表情。 もしかしたら本人さえ出来ないだろうっていう顔を、無防備にサンジに晒す。 それを見るたびに不自然に跳ね上がる心臓は、サンジですら予測不可能だ。 「残るは…ゾロね」 内心ぐったりしかけていたサンジの前で、テーブルに着いていたナミが笑った。 何の話かわからないチョッパーは首を傾げ、ルフィはご飯を前にして「待て」状態で我慢するのに必死だ。 「まぁ期待しちゃいないけど、出たら見ものね」 余裕が出てきたのかニヤリと笑うその顔は、いつも見慣れたどこか不敵で悪いゾロの顔。 ホッとすると同時に、とくん、と小さく心臓が跳ねた。 ……あれ? 「剣士さん、今起こしたわよ」 テーブルで小さく目を瞑っていたロビンがくすりと笑った。 普段はサンジが蹴りに行くまで放置なのだが、ロビン自ら手を出すとは、彼女もどうやらこの事態を楽しんでいるらしい。 ほどなくドカドカと重い足音が聞こえて、がチャッとキッチンの扉が開いた。 緑の髪にお似合いの腹巻、ジジシャツ。顔と体のパーツが合っている……ホンモノの、ゾロだ。 現れたその姿に、サンジはごくりと息をのんだ。 事情を知っているクルーたちの目も、一気にゾロに集中する。 「……あ?」 注がれた視線にゾロは一瞬面食らったように一人ずつ顔を見回したが、やがて視線をぴたりとサンジに止めると 「何やってんだお前等。おいアホコック酒くれ」 いつも通りの悪態をついたゾロに、一同の肩ががっかりと落ちた。どうやらゾロも効果なしのようだ。 「朝一から酒たぁ一体どこのダメ親父だテメェ。今度チョッパーに試験管で脳からアルコール漬けにしてもらえ」 ホッとしたと同時に、ちょっぴり…ほんのちょっぴり残念なこの気持ちはなんだろう。ちくしょう。 わずかでも期待してしまった自分の照れ隠しのために、サンジは思い切りゾロを睨みつけた。 「大体ゾロに期待する方が無理な話だったのよねぇ…」 「そうだなぁ、獣に恋は早かったなぁ」 「…朝っぱらから喧嘩売ってんのかお前等」 ぴきりとこめかみを引きつらせたゾロの言葉にかぶさるように、いっただきまーす!と待ちきれないルフィの声がキッチンに響いた。 * 2へ * -------------------------------------------------------------------------- |