それは静かな夜の声 |
幻の海の程近く、星の瞬く穏やかな波の上に一艘の船が浮かんでいた。 風も凪いだ、静かな夜である。 小さいながらも1階部分には数席のテーブルを備えている、昼間はレストランとして賑わうこの船も、星の深いこの時間は店の片づけと明日の仕込みを終えたコックたちもみな寝静まり、ちゃぷちゃぷと波が船腹を叩くのにまかせて揺れている。 いや、よく見ればその2階の窓辺に、揺れる小さな灯りが一つ……。 サンジは短くなった煙草を灰皿でもみ消すと僅かに緊張したように息を詰め、机の上の小さなランプの下に置かれた子電伝虫を手に取った。 受話器を上げ、コール音を待つこと3回。 『はい』 電伝虫から、いまだに愛して止まない天使の声が耳に甘く響いて、サンジはふわりと力を抜いた。 「こんばんは、ナミさん」 対レディ用の極上の笑みを浮かべながら、見えない相手に向かい手にキスを落とすようにやわらかくまぶたを落として礼をする。 『こんばんは、サンジくん』 GM号の美しい航海士の、変わりないはっきりとした声にサンジは頬を緩ませた。 夢の地の近くで店をやってみたいと、まだたくさんの夢を乗せたまま止まる事など出来ない船を一旦降りたのは1年と少し前。 その時に女神から手渡された電伝虫。 いわく、ルフィが我慢しきれなくなって押しかける時の連絡用に。 『だって普通の仕入れのままじゃ材料が底を尽いちゃうでしょ』 そう黒い瞳で上目遣いに笑われれば、サンジも苦笑するしかない。未来の海賊王にメニューの全てを食い尽くされた店というのも、それはそれで箔がつくかもしれないが。 『この電話はキッチンに置いておくから……』 サンジくんが戻ってくるまでのお留守番に。 『寂しくなったら電話してね』 これは決して永遠の別れではないのだから。 そうはにかんだナミにサンジは例のごとくメロリンハートを飛ばしまくり、そして笑って岸を離れる船に手を振った。 最初の頃は何でもない用事にかこつけて、色んな仲間が電話を寄越した。 主にサンジによく懐いていたチョッパーと気さくなウソップが多かったが、やがてサンジもレストランの経営できる船を手に入れ、近くの町でまだ若いけれど信頼のおける目をしたコック見習を2人雇い入れて海に出る頃には、忙しさに追われて電話する回数も減っていった。 今ではこうしてレストランの終わった深夜、そっと電話をかけるのが常になっていた。 サンジから電話する場合、コールは5回と決めている。 相手はグランドラインを航海中なのである。嵐や敵船の応戦で出られない事態もあるだろうし、それにこんな深夜では起きているクルーも少ないだろう。 一度盗み食いしていたのであろう船長が『ふぁい』とモグモグ口を動かしたまま電話口に出たことがあり、その夜はそのまま小1時間テーブルに座らせて説教をした。ルフィは電伝虫の切り方が解らなかったらしく、律儀にもナミを呼びに行きそこでナミにも食料荒しがバレて一撃をくらった。あの夜は賑やかで、まるで海を越えてメリー号に乗っているかのようだった。 それから、万年寝太郎のゾロが電話に出たことも、実は一度だけある。 『なんだ』 出るなり横柄に言い放った深い声に、サンジは殊のほか驚いてしばらく息をするのを忘れた。 『悪戯電話なら切るぞ』 ニヤリと笑った気配があって、サンジは動揺を見透かされたようでカッと頬を染めた。 『寂しくて眠れねぇのか』 次いでそうのたまった剣士に、サンジが蹴りの代わりに言葉でガンガン応酬したのは言うまでもない。 深夜のキッチンに居た理由はルフィと大差なく、酒を漁りに来たのだという。 その夜の電話は内容こそ他愛なかったが、他の誰よりも深く、心に溶けるような声でサンジの耳にいつまでも残った。 以来深夜に電話をかける時、妙に心が落ち着かない。 それが期待をしているからなのか、緊張して息を呑む自分に馬鹿だなぁと思う。 ゾロはあれから一度も電話に出なかったし、そしてこれからも決して出ないだろうことはわかっているのに。 こんな風に星の深い夜、彼女はよくホットココアを飲みながら海図を描いていた。よくそれに付き合って癖を知っていたサンジは、最近はそれを狙ってこうして電話をかけることが多かった。 もしかしたら聡いナミの事だ、サンジが知っていることを解っていて、あえてキッチンにいてくれるのかもしれない。 「そっちはどうだい?こっちは今、とても星が綺麗だよ」 『こっちでも綺麗に見えるわ。この分なら明日も良い天気ね』 今晩も変わりない調子で話す彼女の言葉。 それはいつもサンジの心を暖かいもので満たして。 同時に落胆にも似た重い気持ちが、トンと心の奥に落ちて沈む。 どうしようもない感情。 弱々しさに、自分を嘲笑する。けれどそれはこんな静かな夜、覆い隠す日常を忘れる頃に気づけば心を占めていて。 胸の奥を揺するその感情に気づかないふりをして、サンジはいつもの通り語りかけた。 店の様子、コックの成長ぶり、この前来た変な客のこと、新しく出来たメニューをナミさんにも食べてもらいたいこと。 ナミも笑ってサンジに伝える。 新しく見つけた島の様子、ルフィが無茶な冒険をやらかしたこと、ウソップのくだらない発明が爆発して、チョッパーが巻き添えをくったこと、ロビンが遺跡から偶然にもお宝を見つけてきたこと。 かわらない日常は今もこの受話器の向こうに溢れていて、サンジはまぶしさに目を細めた。 けれどそれは日々、確実に姿を変えていくもので。 鷹の目との対決。 夢の到達点を目の前に見据えてゾロが船を降りたのは、サンジが船を降りて3ヶ月目のことだった。 ナミからの電話に気づいたのは、ゾロが降りるという前夜のことで、「代わろうか?」そう言ってくれた彼女の申し出をやんわりとサンジは断った。 「……簡単にくたばるようなタマじゃないし。でもまぁ…ズタボロになって帰ってきたら、電話してよ。病院食くらいはデリバーしてやろうと思うから」 信じてるから。 そんな一言ではとても足りない。 けれどそれすら言葉に出来ず、ただいつものように軽く笑ったサンジにナミも笑っていた。 しかしその後、ゾロはそのまま消息を絶った。 鷹の目と対峙する男の姿を海上で見たという噂を近くの島に残し、決着も定かではないままに。 最初は「あのバカどこで迷ってんのかしら」と笑い合っていた会話も、今ではもうしない。 口には出さないけれど、きっと皆心配はしているだろうし、いつか帰ってくるだろうことも信じているだろう。 けれど。 こんな静かな夜にはふと、考えてしまう。 ナミの最初の口調に変化がないか、小さな不安と、少しばかりの期待を抱いて息を詰める。 そしていつもの変わりない口調に、最悪の事態が起こったわけじゃないという小さな安心に息を緩め、今日もまだあの緑頭は戻って来ていないのだと知らされて苦笑いする。 『……さみしい?』 唐突に、電話の向こうのナミが言った。 考えを見抜かれたのかと、一瞬ドキリとする。 「そりゃ傍にナミさんvが居ないのはさみしいよ〜〜v」 そんなサンジの答えを、しかし今日のナミはやんわりと流した。 『そうね。でもこんな夜には色々と、思い出すでしょう』 まるで柔らかく包み込むような囁きに、サンジは困ったように小さく眉を寄せた。 『私はよく思い出したわ……まだ1人だった時は、特にね。こんなに静かな夜は、どうにも心が思い出してしょうがないの。懐かしい人の顔、その時伝えきれなかった言葉とか……だからかしら。何も考えないように、一心に海図を描くの』 思いも寄らないナミの告白を、サンジは黙って聞いていた。 こんな夜によく起きだしていたナミの理由を初めて知った。『もっとも最近はそれが癖になっちゃってるだけなんだけど』と最後に軽く付け加えられる。 『たまにはサンジくんも、言ってもいいのよ』 「え…?」 『聞いてあげる』 何を、と聞くまでもない。ナミはそのまま黙ってサンジの答えを待っている。 こんなに離れているのに、サンジの考えていることなどナミには丸わかりのようだ。 「敵わないな…ナミさんには」 苦笑して、サンジは諦めて小さく息を吐いた。 深い夜空の見えるガラス窓に情けない自分の顔が映っていて、サンジはますます眉を下げた。 ガラス瓶の中でオレンジ色の灯りが小さく揺らめいた。 サンジはしばし言葉を探したあと、ぽつりと呟いた。 「俺だって、そりゃあさ……信じてるんだ」 『……何を?』 「……マリモ。あんな藻類でも…まぁ仲間だし……俺だって、信じてる」 誰にも、本人にすら言えなかった言葉を、サンジはもう一度繰り返した。 無性に寂しくなる夜、顔も見えないナミ相手だからこそ、言えた言葉だ。 電話の向こうのナミは何も言わず、ただサンジの言葉に耳を傾けている。促すような優しい気配に、サンジは甘えることにした。 「あいつが負けるなんて考えたことねぇ。……でも、人の命がどんだけ一瞬で、思いも寄らぬところで流されちまうかってことも、よく知ってる」 どんな戦いに生き残ったつわものも、嵐の前には無力であるように。船ごと海の底にのみこまれたたくさんの命を、幼い頃自分は目前にした。 「大方どっかで迷子になってるんだろうけどさ」 一度言い出したら、ほろほろと胸の奥から言葉が溢れてくる。 「俺が降りるときも、あいつが降りるときも、もっと言いたいことがあったはずなんだ。でもそれが何だったのかわからない」 そもそも自分が降りるときにアイツは何を言った?あえて聞かなかった気もするし、自分からはナミさんとロビンちゃんをよく敬えとかそんな軽口を言ったように思う。 「後悔してるとかじゃ、ねぇんだ」 きっとあの時電話を代わってもらったところで、上手い台詞が言えたはずもない。 アイツに特別な言葉をかけるなんて事をしなかったのは、これで最後じゃないんだと逆に思いたかったから。 「ごめんねナミさん。こんなに弱いこと言っちまって。ホント自分でもわかんねぇんだ…この感情が何なのか」 信じているのとは別のところで、夜毎溢れてくるもの。 「……こういうのを何て言えばいいんだろうね」 サンジはぼんやりとガラス窓を見た。 「寂しいともちょっと違う。懐かしいとか、切ないとか、どれもぴったりこないんだ」 窓の外にきらめく星空。遠い空の下でサンジの話を聞くナミの目にも、同じ輝きが見えるのだろうか。 そしてどこかにいるアイツの目にも。 「でも会いたくて……この手に抱きしめたくて、しょうがない。だって覚えてるんだ。声も、温もりだって…」 睦言めいた台詞に、サンジは苦笑した。 けれどガラスに映る自分の顔は、今にも泣きそうに歪んでいた。 「……ああそうか、こういうのを」 「恋しいって、いうのかなぁ……」 『やっと言いやがったなクソコック』 電話の向こうから舌なめずりでもしそうな太い声が聞こえて、サンジはびっくりして目を瞬いた。 「………え?」 サンジはもう一度目をぱちぱちさせる。 「え、なに、ナミさ…」 『ナミ!とっとと船付けろ!』 『アンタ命令しないでよ!一体何様のつもりッ!』 『うを――ッ!』 戸惑うサンジの耳元で、電話の向こうからドタバタと騒がしい音が聞こえる。最後にルフィのよくわからない叫びが聞こえたと思った途端、ぐらっと大きく船体が揺れた。 「なッ……」 ガコォン!と何かが勢いよく船の横腹にぶつかり、サンジは倒れそうになる体を机にしがみつくことでなんとか支えた。 ざぱーっと大きな波しぶきが窓を濡らす。 つかまったままあんぐりと口を空けるサンジの耳に、ドタバタと廊下を走ってくる音。バターンと寝室のドアが開けられて、寝巻き姿のコック2人の慌てふためいた顔が覗いた。 「おおおオーナー!敵襲ですッ!!」 「か、海賊がッ…!」 『ごめんねサンジくん、でもアイツ、デリバーなんか待ってられないって言うんだもの』 2人の声に、電伝虫からぺろっと舌でも出してそうなお茶目なナミの声が重なった。 夜空にはためく、ドクロのマーク。 にっかり笑ったトレードマークは、嫌というほど知っている。 受話器を握り締めたままのサンジの顔が、カーッとみるみる赤く染まった。 「お、オーナー?」 その様子におろおろする2人を手でいなし、サンジは緩めていたネクタイをきゅっと締め直した。 「大丈夫だ。1年迷子になってた魔獣1匹……30秒で沈めてやらァッ!!」 うらぁあッと自棄になったように叫びながら、サンジは怒涛の勢いで甲板に飛び出していった。 |
*END* ------------------------------------------------------------------------------- このあとなんだかんだでオールブルー近くに漂っていたサンジの店は、 サンジの飯が食いたいという船長と剣士のわがままにより、無理やりGM号にロープでつながれてGL入りしましたとさ(エェ!?) |