やわらかい朝 ------------------------------------------------------------------------------- |
静かな朝日がカーテンを通して瞼を揺する。 優しく眩しいその感触に、サンジはうっすらと目を開けた。 淡い光に浮かぶのは、見知らぬ部屋の見知らぬ家具たち。 さらさらしたシーツの上、静かに眠るそれらの間で小さく顔を上げて、サンジは無意識に見知ったぬくもりを探した。 白くてふわふわの羽毛で覆われた、サンジの小さな体。 その細くて長い首のすぐ下から、どくん、どくん、と力強いリズムが聞こえる。 意識をあたりにめぐらせれば、頭上から聞こえる正しい寝息。 そして寝ていてもなおこの部屋に満ちる、圧倒的な存在感。 緑色の頭を枕に埋めている三刀流の剣士……ゾロだ。 枕もとに立てかけた三本の剣も、主の眠りをそっと見守っている。 サンジはほう、と安堵の息を吐いて、日に焼けたゾロの脈打つ太い首に再びくたりとその身を預けた。 翼を閉じてまるまるとした胴体部分は、横たわるゾロの肩と顔の間に生まれるL字型の隙間にぴたりと収まっている。 そこから伸ばした首だけを、マフラーのごとくゾロの首を覆うように横たえる。 寝る時は人間の姿になって隣に入れと言われているのだが、サンジはこうして無防備なゾロの首を守るように、巻きついて休むのが好きだった。 大きくてごつごつした人間の体では、どんなに頑張ってもゾロとの間に隙間ができる。手や頬を巻きつけたって、どんなに強く抱きしめてもらっていたって、ぴたりと肌を合わせていることは難しい。 目が覚めたときに解けてしまっている指や胸の、その小さな隙間がとてもさみしい。 ゾロ体温や肌のすぐ下に流れる血の鼓動、それらをずっと感じていられたら。 いっそ溶け合ってしまえたらいいのに、と何度思ったことだろう。 すり、と羽毛をなするように、サンジはゾロの頬にくちばしを乗せてうっとりと目を閉じた。 知らない町の、宿屋の安いベッドの上。 旅をしている二人にとって目覚める場所は常に違うけれど、こうして目に映る風景はいつも優しい。 やわらかい世界。 けれどゾロとただ穏やかに迎えるこんな朝は、ひどく胸の奥がざわつく。 落下した瞬間の浮遊感のように、すうと腹の底から沸きあがる冷たい気持ち。 (ああ……まただ) 優しい朝には不似合いな感覚を、サンジはくらりと回る世界を瞼の裏に閉じ込めた。 今すぐ叫びだして打ち払いたくなるような、むず痒い不安感。 穏やかな時間を迎えるごとに、体の奥底から滲み出るこの気持ちがサンジの幸せな足場をじわじわと蝕んでいく。 いつまでもこんな所で幸せな朝を迎えてはいけない。 こんな穏やかな日に身を置いてなんて、いられるはずがないのだ。 嵐の前のように。 息を殺した何かが忍び寄るように。 今平穏であることがひどくサンジを不安にさせる。 早くどこかへ歩き出さなければ、なにか、取り返しのつかない事が起こってしまうような気がするのだ。 自分たちにとって、きっとよくない何かが。 焦燥感にも似た暗い思いを打ち消すように、サンジはぎゅうとゾロの首に巻きついた。 揺ぎ無いこのぬくもりだけが、今サンジを繋ぎ止める全てだ。 変わらない鼓動。 昔からずっと、サンジはこの音を聞くのが好きだった。 そう昔から。 海の音にも似た、この音が。 ぎゅうー、ぎゅううーっと思いの限りひっついていると、グフッと頭上でうめき声がした。 あ?と思っている間に頭の上に伸びてきた太い手が、がしっとサンジの首ねっこを掴んだ。そのままべりっとゾロの首から引き剥がされる。 大好きな体温がみるみる遠ざかる。 「…テメェなにしやがるッ!」 せっかく気持ちよくくっついていたのに。 ばたばたっと羽毛を散らして暴れるサンジを、不機嫌に眉を寄せた茶色の目が睨んだ。 「そりゃこっちの台詞だアホ眉毛!圧死させる気かッ!てめぇアヒルだっつっても力変わらねぇんだから、ちっとは加減しやがれ…!」 ぷらん、と持ち上げられた先に、寝起きの仏頂面。 朝日に透ける茶色の瞳にすらうっとりしそうになって、サンジはチッと舌打ちすると首をわしづかんでいるゾロの手をぱしっと振りほどいた。 そのままぱたぱたっと小さく羽ばたいてゾロの胸に降り立つ。 降り立った先、裸の胸に斜めに走るのは大きな傷跡。 いつかこの理由も聞いてみてぇな、なんて思いながらサンジはぐぐっと背を伸ばした。 天に伸ばした両翼が、小さな水かきのついた両足がぐんぐん長く伸び、やがてひと呼吸のあとそこにはあっというまに白い肌に金の髪を持った一人の青年の姿が現れた。 ゾロの裸の胸の上、跨る体はもちろん全裸だ。 それを下から眺めるようにいやらしく細められたゾロの目に、再び舌打ちしてサンジはゾロの顔に覆い被さった。 受け入れるためにあらかじめ緩く開かれたゾロの口腔は、寝起きのせいかとても熱い。 まるで子供のような体温に苦笑して、サンジは自ら誘うように舌を絡めた。 乾いた互いの喉を潤すように、次第に溢れてくる唾液を交わす。 最後にちゅ、と小さく音を立てて離した唇に、満足した猫のようにゾロが笑う。 けれどサンジは妙に物足りなくて、再びその端っこにちょん、と口を寄せた。 「お?今日はノリ気じゃねぇか」 「そうじゃねぇ」 すかさず尻あたりに伸びてきたゾロの手を払いのけながら、サンジは探るようにぺろりとゾロの唇に舌を這わせた。 なんだそりゃ、と味見でもするようなサンジの様子に苦笑しつつ、ゾロとしては大股開きで眼前に跨っているこのアヒルこそご馳走だ。 朝から眠気も飛ぶような眼福のアングルに、ゾロは心の中でいただきます、と手を合わせた。 どんな姿であってもこの天然ものの無防備さはありがたい。 「てめぇ…やらしい笑いしやがって何考えてやがる」 手に馴染んだ背中から太ももにかけての肌触りを楽しんでいたら、くるりと巻いた眉が不機嫌に寄った。 「いや養殖より天然がウマイよな、と」 「あ?そりゃなんでもそうだろうがよ」 青い目がさも当然と言ったようにゾロを見下ろす。 やはり色んな意味で大事にせねばと思いつつ、ゾロは必死になって唇を寄せてくる金髪の後ろ頭をぐっと引き寄せた。 サンジの唇がとろりとゾロを溶かしていく。 「あー…くそ」 再び咥内の隅々まで舐めあった後、サンジが漏らした呟きにゾロが片目を開けた。 「全然足りねぇ」 「何がだ」 「……なんかよ、どうにも口寂しいっつーか…」 「なんだそんなことか。たっぷり埋めてやるから安心しろ」 「ばッ!そういう意味じゃね………あっ…」 ころりと体勢を換えてベッドの中に引き入れてしまえばこっちのものだ。 そしてあとは、いつも通りのやわらかい朝。 *** 「あぁ、そういやようやくデカイ町に出れたからな、手に入ったんだ」 朝飯食べに行かないとなぁ、と思いながらくたりと弛緩していたサンジに、もそもそと荷物を漁っていたゾロが小さな箱を投げた。 「おら」 「あ…?」 もぞりとシーツの海から顔を出して、ゾロが放ったものを手で受け止める。 手の平に収まる小さな箱。次いで渡されたマッチに、サンジの目が輝いた。 「お!てめぇいいモン持ってるじゃねぇか!」 ぴよんと立った金髪もそのままに、サンジはがばっと起き上がると真新しい煙草のパッケージを破った。 取り出した1本を口に咥え、馴れた動作で火を付ける。 目一杯吸い込んだ胸に染み渡る煙。 馴染んだ匂いに、サンジは大きく息を吐いた。 「気ぃ利くじゃねぇかクソマリモ」 口端に煙草を咥えたままにやん、と笑うと、ゾロが驚いたようにサンジを見返した。 「……んだよ?」 丸く開かれたゾロの目が、ふっと緩む。 そして口端をちょっと上げて、ひどく遠い所を懐かしむような視線でサンジを見た。 「……っ」 その表情がなんだかたまらなくて、サンジはぎゅう、とゾロに抱きついた。 こんな時のゾロは、サンジの知らないどこか遠くの世界を見ている。 自分の知らないところ。 そこはきっと、ゾロがいつか離れて行ってしまう場所ではないだろうか。 このままではいけない。それはわかっている。 けれどいつか終わりを告げるだろう、今の自分たちの優しい時間―――それを失ってしまうことが、どうしようもなく哀しかった。 「……行くのか」 このまんま遠くへ、いっちまうんだろう。 ぽつりと耳元で呟いたサンジの背を、ゾロが強く抱き返した。 「ああ、行くしかねぇだろ」 笑うゾロの目が再び強くしっかりと今のサンジを捉えていて、サンジは小さく息を吐いた。 「俺が鷹の目に会うのが先か、散り散りになっちまったアイツらを見つけるのが先か…どっちにしたってまぁ道は変わらねぇ」 「……変わらないのか」 アイツらって誰だ。 鷹の目ってやつに会って何すんだ。 色々わからないことはあるけれど、サンジはすぐ近くにあるゾロの体温に黙って身を預けた。 「ああ。とりあえずテメェは変わらずここにいるし」 ゾロが不敵に笑った。 「とにかく真っ直ぐ前の方、目指してんだろ」 あの頃と全然変わらねぇ。 そう何故か胸を張って言い放ったゾロに、サンジは呆れて笑った。 「…テメェ、そんなアバウトな方向感覚だから迷うんだぜ」 明日はどこにいるだろうか。 穏やかにこんな朝を迎えられるのだろうか。 ……二人一緒に、居られるだろうか。 変わらないというゾロの言葉を信じて、サンジは立ち上がる。 そして今日も二人は電車に乗って。 目指すは、海へ――――。
「『嵐が来るわよ!』」 「…そんな自分の大声で目が覚めたの」 サンジの焼いたクッキーをさくっと噛んで、ナミは頭を抱えた。 メリー号の、どこか懐かしさすら覚えるキッチン。白いテーブルクロスに肘をついたナミの向かいに座って、サンジは笑って紅茶を注ぎ足した。 「気付けばルフィと二人、手漕ぎの小さな船で海のど真ん中よ!?信じられる?」 慌てるナミをなぜかすっぽり膝に抱えたまま、ルフィは真っ黒いあの目でナミをきょとんと見た後、ニシシと全開の笑みを浮かべて言ったのだという。 『おう!お帰りナミ!あとは任せたぞ!』 「しかも猫だった時の記憶が微妙に残ってるのが痛いのよ…」 有り得ない!!とほんのり顔を赤らめて絶叫するナミはとても可愛らしい。 これだけでもこの船に戻ってきてよかったとしみじみ思う。 猫だったナミを抱えて、ルフィはどんな旅をしたのだろう。 きっと毎日、ナミは幸せな愛され方をしたに違いない。 方向音痴のマリモに連れられたお陰で海に出るまで大陸を一周しかけた自分たちより、まだナミの方がよかったのではないのだろうか。 「サンジくんはどうだったの?」 「俺…?」 サンジといえば、気付けば見知らぬ宿のキッチンでお膝だっこされながらゾロにつまみを食べさせていた状況で目が覚めた。 お膝抱っこ、という状況がナミと同じであることが、妙にいたたまれない。 しかもお口あけて、あーんとかやっちゃっていたのだ。 ナミには言えない。とてもじゃないが言えない。 しかもそれが実を言うと毎晩よくあることだったりしたので、一瞬見覚えのないキッチンに違和感を覚えたものの、ぎゅうぎゅう抱えてくるゾロのぬくもりと甘い雰囲気に流されて、いつもより甘えやがってこんにゃろーめ、くらいにしか思わなかったのだ。 気付いて愕然としたのは朝。アヒルだった頃の痴態やらゾロの変態ぶりやらが一気に思い出されてきて、ぐうぐう寝こけるゾロに久々の大技をかましたことはまだ記憶に新しい。 「サンジくんも覚えてるんでしょ?アヒルだったときのこと」 「う、まぁ、ね…」 口篭もったサンジに、ナミがにやりと笑った。 「まぁゾロとのラブい生活なんて、聞かなくても想像できるけどね」 「…ナミさぁ〜ん…」 海は時に気まぐれで、仲間を容赦なく引き離す。 けれど真っ直ぐに、真っ直ぐに。 前を目指して進んでいれば。 明るい日差しの差し込むキッチン。 甲板に溢れるクルーの笑い声。 サンジはゆったりと笑った。 「それでも…悪くない時間だったよね」 「…うん」 微笑んだナミの手の中で、紅茶が静かに揺れた。 いつかこうして、辿り着く未来。 変わらない、やわらかな朝。 *END* |