目覚め ------------------------------------------------------------------------------- |
大都心のど真ん中、歓楽街の少しはずれに、その店はあった。 フレンチレストラン・バラティエ。 小さな階段を上ったところにあるその空間は素朴で暖かく、外回りの営業であるコーザ行き付けの店だ。 コーザの勤める会社は駅を挟んで反対側にあるのだが、花街のすぐ傍にある私鉄の駅を利用することが多い為、日に何度もこの雑多な通りを行き来していた。 その道すがらに見つけたこの店。気難しい老人が一人で作るその料理の味に惹かれて、以来ランチタイムは勿論時間が合えば夕食までも食べにいっているほど。 そんな店に、数ヶ月前から不思議な少年が居つき始めた。 ほっそりとした体格やその容姿からまだ未成年だと思われるその少年は、その天然の金髪のせいか不思議と目を引いた。 最初はバイトのウェイターだと思っていたが、どうやら料理人見習いらしい。マスターと怒鳴りあいながらせっせと厨房を行き来している姿に、コーザは少なからず驚いた。 オーナーが厨房に人を立たせているのを見るのは初めてだったからだ。 こりゃまた面白い人材が入ったもんだと、食後のセットコーヒーを飲みながらぼんやり思っていた。 少年は最初とにかく必死で、目の前のことに精一杯といった感じだった。 しかしいつからだろう。 一通りの仕事を覚えて余裕もでてきた頃だ。 片付けをしている時だったり、注文を待っている時だったり、ふとした瞬間に不思議な表情をするようになったのだ。 何かを思い出すような。 懐かしむような遠い目をして、すっと虚空を見つめる。 その青い目がふっと潤み、あ、泣く…と思った瞬間に、ふわりと口元から花のように笑みがこぼれるのだ。 そしてそれはすぐ、何かを決意したような力強い瞳に変わる。 ほんの一瞬の出来事だが、しかし気付いたのは多分自分だけではないだろう。 ランチタイムのピークに集まる馴染みの顔ぶれ、赤い髪のオヤジは口笛でも吹きそうな感じでニヤニヤとそれを見ているし、目の下が黒い人相の良くない男は食い入る様にその表情を見つめ、更に何故か頬まで染めている。 「恋してるねぇ」 若いっていいなぁ〜なんて小さく呟いた隣の席の赤髪に、コーザはなるほど、と思った。 確かにそれは、誰かを想うときの目かもしれない。 仕事のの合間にできた僅かな時間は全て体と精神を休める為にしか使っていない、そんな社会人になってからはとんと忘れていた感情だった。 学生時代、確かに自分にも覚えのある想い。 そうと気付いてからは、どこか微笑ましい思い出を見つめるような気持ちになって、ますます少年から目が離せなかった。 陽の落ちかけた駅前の道を、コーザは鞄片手に走っていた。 長引いた会議の為、約束の時間を少し過ぎてしまった。帰路につくサラリーマン、飲みに行く若者、花街に繰り出すオヤジ、様々な人種で溢れ返る歩道を縫って待ち合わせ場所を目指す。 ネオンがきらきらと点り始める街の中に、彼女はぽつんと立っていた。 水色の髪を腰まで流して、よく映える白のワンピースを着ているその姿は遠目からでもよく目立つ。 初めて会ったのはまだお互い幼稚園児だった、親同士の交流も深い幼馴染のビビだ。会うのは久しぶりだが、元気そうなその姿に思わず心が浮き立つ。 声を掛けようと近くまで行った時、しかしコーザはドキリとして足を止めた。 ビビは夕暮れの雑踏に目をやりながら、遠い目をしていた。 その目に映るのはあの少年と同じ、ほのかに温かな、優しい色。 見てるこちらまで不安になるような、思わず抱きしめたくなるような表情をみせたかと思うと、小さく首を振るように俯く。 そして見たこともないような甘い顔で、静かに笑った。 小さい頃男の自分と張り合って勝気に笑うあの顔とも、学生時代親の目を盗んで抜け出したあの時も。いくつもビビの笑顔を見てきたが、記憶にあるどの表情とも違う。 自分の知らないビビの姿に、コーザは足が痺れたかのように雑踏に立ち尽くした。 小学校から高校までをほとんど同じ場所で過ごし、普段から交流のある家同士なので何かと顔を合わせることも多かった。 その存在は妹のようでもあり、けれど次第に綺麗になってゆく姿に、傍でそっと目を細めていた。 生まれた時からその家柄のせいで、ビビはお姫様のように丁寧に守られてきた。 本来ならコーザなんかには手の届かない存在。 けれどもっと違う意味でビビは、コーザだたひとりの、大事なお姫様だったのだ。 自分が守ってやるんだと。 いつも笑顔でいさせてやりたいと、あんなに強く思った。 それは大事な……大事な。 ビビの目線がこちらを向いた。コーザを見つけた目が、驚いてそしてふわりと緩む。 「コーザ」 熱く澱んだ都会の人ごみの中で、一際涼やかにはえる水色の髪を揺らしてビビが歩き寄ってくる。 その顔に先程までの表情はなかった。明るく気丈ないつものビビの顔だ。 コーザは金縛りが解けたように、慌ててビビを迎えた。 ビビを連れて、半地下にある落ち着いた店に入った。あえてバーなどではなく、ディナーメニューの豊富な洋食居酒屋にする。 「今日は出てきてもらって悪かったな」 コーザの実家とビビの実家は近いのだが、コーザは就職が決まるとともに通勤に便利なここから私鉄で2駅程行った所に一人暮らしをしていた。 ビビの方から会いたいと突然電話があったのが昨日のこと。 他愛ない近況やおしゃべりで食事があらかた済んだ頃、ビビはしばらく俯いて視線を揺らしたあと、やがて決心したようにコーザを見た。 「コーザ、私ね、婚約することになったの」 「……え?」 予想外の言葉に驚いてビビを見つめれば、いつになく真剣な表情とぶつかった。 「そ、そうか……それは、おめでとう」 内心の動揺を隠し、努めて表情を変えずにコーザはビビに向かって笑ってみせた。 「あんなに小さかったビビにも、こんな日が来るなんてなぁ…」 じゃあ今日はお祝いかな、と言いながらグラスを傾けたコーザに、ビビも小さく笑った。 「相手は誰なんだ?俺も知ってるやつか」 「クロコダイルさんっていう、バロックワークス社の社長さんなんですって」 噂話をするような口調で、目を反らしてビビは手にしていたグラスに口をつけた。 「お前…もしかして会ったこともないヤツなのか…?」 「…ええ」 ビビの父親は歴代続く大企業の社長だ。一人娘のビビの婚約相手、それはつまり将来その椅子を見込まれる相手に他ならない。 バロックワークスとういう名前はコーザも知っている。海外の企業をベースに最近台頭してきた会社だ。 つまりこの婚約は、企業同士の提携・合併をも意味する。 「いいのか…それで」 「……ええ」 落ちる沈黙に、ビビは慌てて笑うと席を立った。 「とにかくコーザには知っておいて欲しかったの。幼馴染なんだし。…それじゃ…おじさんにも、よろしくね。今日はありがとう」 席を立つビビの手を、コーザは咄嗟に掴んでいた。 「ビビ…」 なに?と戸惑いながら小首を傾げる仕草は幼い頃と変わらない。 けれど掴んだ手はとても冷たかった。 「さっき駅で俺を待ってる間、お前ずっと、何を考えてた?」 突然の質問にビビは不思議そうに目を瞬かせると、ああ、と思い出したように笑った。 「そんなの、コーザのことにきまってるじゃない」 はにかんだビビの表情に、コーザのどこかが決壊した。 「好きだ」 気付けばそんな言葉が真っ直ぐコーザの口から飛び出していた。 「え…?」 強張ったようなビビの唇が震える。コーザはもう一度繰り返した。 「お前が好きだ、ビビ」 ビビの目が大きく開かれて、そしてみるみるうちに大粒の涙が溢れた。 「私は嫌いよ」 唇を噛んで、小さい頃背中で泣いていたあの時の顔のままで、ビビはきっとコーザを睨みつけた。 「コーザなんて大嫌い…!今更、そんな……ッ」 荒げた声を飲み込んで走り出そうとするビビを、繋いだ手で引き戻す。 バンッと強い力で頬が張られた。周囲の視線が集まる中、それでも嫌がるビビの手を掴んだままコーザは席を立った。 会計を済ませ、店の外へ出る。 普段気丈なビビが、涙を隠そうともせずに喚く。コーザは無言でビビを連れて通りを歩いた。 背を叩かれ、手に爪を立てられ、罵られ。 やがて最後はただ泣きじゃくるだけになったビビの、手だけは決して離さなかった。 大通りでタクシーを捕まえて、ビビの家まで行った。 首都郊外にある大きな邸宅。 深夜俯くビビを連れて帰ってきたコーザに、顔なじみのチャカやペルは血相変えて飛び出してきた。 お嬢様に何をしたと詰め寄る二人を押しのけ、心配するテラコッタさんをやんわりと制して、コーザは屋敷の奥へ向かう。 そして書斎の扉を開けると、何事かと机から目を上げたビビの父、コブラに向かってダン!と床に手をついた。 突然手を離されたビビが、何事かと顔を上げる。 開け放たれた扉の外で、チャカとペルも様子を伺う。 そしてコーザは腹いっぱいに空気を吸い込むと、響き渡る声で言った。 「ビビさんとの交際を認めていただきたい!」 コブラは眼鏡を外すと書類の上に置き、ゆっくり床に頭を下げたコーザを見下ろした。 夜中の闖入者にも特に慌てた様子もない。 「ビビは先日、婚約の話がまとまったところだ」 「はい、知っています」 「ではビビと付き合うその意味が、わかっているのだろうな。もう只の幼馴染みという訳にはいかんのだぞ」 「はい、承知の上です」 低い威厳のある声がコーザに落とされる。 「ではクロコダイル氏よりも、自分の方がその器があると?」 「……」 コーザは顔を上げると、コブラと目を合わせた。 「……会社云々の器が自分にあるとは思えません。でも」 「俺はビビを泣かせることだけはしない」 強く言ったコーザの目を、コブラが真っ直ぐに見た。 深い、底まで見通されるような目の力に、コーザは手に汗を握って息を呑んだ。 しんとする部屋の中。 やがてふっと、コブラの双眸がんだ。 「ビビを泣かせたら、承知せんぞ」 それは小さい頃泥だらけになった自分たちを迎え入れた、優しい父親の顔だった。 傍でへたりと座り込んだビビが、「今日ので一生分泣かせたくせに」と優しい力で背を打った。 あれからバラティエに一度、やたらとガタイのいい緑髪の男がやってきた。 サンジという名のその少年の表情が、目に見えて崩れた。 ああ、これがサンジの想い人かと、それを見た誰しもがすぐわかった。 しかし店で働く少年の目に、未だ切ない想いの影は消えない。 きっとまだまだ、幸せに辿りつくには時間がかかるのだろう。 今度はここに、ビビも連れてこよう。 これから新しい会社に移り、何かと忙しくなる。ここにも毎日のようには通えなくなるだろう。 落ち着いてビビを連れてくるその時には、少年にも心からの笑顔が戻っているといい。 そう思いながら、コーザは食後のコーヒーを飲み干した。 |