招き猫の鳴く頃に |
深夜営業をしている駅前のスーパー。 バイト先のレストランの仕事を終え、一人暮らしのアパートまでの帰り道にあるそこはサンジの定番の買出しスポットだ。 大学とバイトの往復生活で中々時間の取れない身には、こういう深夜まで開いている店はありがたい。 地下駐車場の入り口にある小さな駐輪場。昼間はご近所のマダムたちの自転車で溢れるそこも、夜11時を過ぎたこの 時間帯はガラガラだ。 サンジは駐輪場が見える曲がり角まで来ると、そこで一体自転車を降り注意深く辺りを見回した。 アスファルトの周り、低い植え込みの陰、壁際の自販機の隙間。 ざっと見た場所にヤツの気配はない。 (――よし!) サンジは素早く駐輪場に走り込んで自転車を止めると、素早い動作でスーパーに滑りこんだ。 予め頭の中でリストアップしておいた目当ての食材を買い、最短時間で外へ出る。今の俺の動きに隙などない! 「っ…!」 しかし両手にビニールを提げながら小走りに自転車の所まで戻って来たところで、サンジは膝から崩れ落ちた。 サンジの自転車、その前カゴにすっぽりとはまっている灰色の毛玉。 「ニャァア」 ふん、と小馬鹿にしたような視線で、その毛玉が鳴いた。 サンジのカゴがまるで特等席であるかのように、ふんぞり返ったまま片方の眼を眇めてサンジを見下ろす。 それは一匹の猫だった。 左眼に細い縦の傷があるその片目の猫はこの辺りの野良猫のボスなのか、猫の癖にやたらと貫禄がある。 それに気配を感じさせない俊敏な動きとか、眼の傷もあいまってまるで昔見た時代劇に出てくる殿様侍のようだ。 「くっそ、お前、また…!」 たしん、たしん、とカゴからはみ出たまだらに黒いしっぽの先が揺れる。 「ニャフン」 まるで「俺を出し抜こうなんざ100年早ぇ」とでも言ってるような目線に、サンジはギリっと歯をかんだ。 いつもこうだ。 サンジがこの駐輪場に自転車をとめている僅かな時間に、どうしてかサンジの自転車を見つけ出してそこにスタンバイしてしまうのだ。 例えば他にいくつか自転車がとまっている時も。まさかと思ってわざわざ自転車を友人から借りて乗ってきたこともある。 けれどどんな時でも必ず、こいつはサンジの自転車を見つけ出してしまうのだ。 お前は警察犬か! 出会いは些細なことだった。 いつものようにスーパーで買い物をした帰り道、駐輪場に止めていた自転車の傍に猫がいた。 なんだか目つきが悪くてふてぶてしい面構えの猫だなぁと思ったが、サンジは基本動物が好きで。とりわけ猫が大好きで。 その時のサンジは丁度レストランから残り物のピラフを分けてもらっていて、明日の朝飯にしようとおにぎり状に丸めたものを ポケットに入れていた。 匂いにつられたのか、猫がサンジに擦り寄ってきて、にゃあと鳴いて餌をねだった。 空腹を訴えるうるうるした眼差し(にその時は見えたのだ)にまんまとやられ、思わずポケットに入っていたご飯を分けてしまった のが全ての始まり。 以来、こうして来店時を張り込みされて狙われている。 「…っ、俺はもうお前に飯はやらねぇって何度言ったら…!」 「ニャァア…」 「ぅぐっ…」 こてん、と首を傾げるあざとい動物から必死の思いで目を逸らす。 しかし腹を減らしたその目を見てしまうと、もうダメなのだ。 ふてぶてしい野良猫だ、構うな、といくら呟いても、胸の奥がきゅんきゅん疼く。 一般的に、餌付けは良くない事だとわかっている。 飼う責任を負うわけでもないのに勝手に繁殖の手助けをし、その結果増えた野良猫がどうなるかも、わかってはいるのだ。 ましてサンジの持っているものは人間の食べ物で、塩分や油分が猫の体にとって本当は害になるであろうことも。 だから、金輪際コイツの顔は見ずに帰ろうと。 「ンナァアアン」 「思ってたのにぅああああああ」 甘いおねだりの声に、サンジは悶えて突っ伏した。 「くっ…こ、今回だけだぞっ…!?これで絶対に本当に!最後だからな!?」 この台詞が幾度となく繰り返された敗者の捨て台詞だってことは、自分でもわかっている。 でも、このぶさいくな猫に懐かれて嬉しく思っているのも事実で。 会わずに逃げようという思いがありつつも、もし出会った時に自分が食べ物を何も持っていなかったらどれだけこいつががっかりするか。 そう考えるととても悲しい気持ちになってしまって、だからサンジのポケットにはいつも、小さな握り飯が入っている。 「…ほらよ」 サンジがしぶしぶ出したものを見て、猫がカゴからするりと抜け出した。 顔に似合わずしなやかな動きでサドルに飛び移り、そこから地面へ音もなく着地すると、差し出したサンジの手に擦り寄ってくる。 今日は白いご飯にシャケと卵を散らしたおにぎりだ。 何度か猫用の餌を持ち歩いた事もあるのだが、この猫は何故かこうして丸めたおにぎりが一番好きらしい。 飼ったこともないのでよく知らないが、猫ってみんなこんな感じなんだろうか? サンジの手からご飯を貰う動作も、初めて会った時から野良にしてはとても丁寧で、前足をちょこんと揃えお行儀よく食べる。 口に付いたご飯粒を小さな舌で綺麗に舐め取るところなんて、動画に収めて宝物にしたいくらいだ。 「…はぁ」 サンジは溜息をついた。 あっという間に全部食べ終えた猫の、その首の毛並みをさくさくと撫でる。 鞄からサンジの飲みかけのペットボトルを出し、その蓋に水を注いで出してやれば、嬉しそうにそれも飲んだ。 「俺が飼ってやれたらいいんだけどなぁ…お前」 名前は、例え心の中で呼ぶだけだとしても付けるまいと決めていた。 決めたら最後、ますますもって離れがたくなるのが目に見えているからだ。 猫は目を細め、黙ってサンジの手の平を受け入れて撫でられている。 こうして触らせてくれるのはお礼の意味もあるんだろうか。 それとも野良になる以前、誰かに飼われでもしていたんだろうか。 前に一度だけ、自転車を使わずに徒歩でここまで来て、そして買い物が終わってからも外へ出ずにじっとスーパーの2階部分の 窓からこの駐輪場を見ていたことがある。 その時は単純に、いつも見つかってしまうのが悔しくて、なんとかこの猫の裏を掻いてやりたい一心だった。 しばらくすると案の定、駐輪場に猫が現れた。 ニヤニヤしながら見ていれば、猫はきょろきょろと辺りを見回し、サンジの匂いでも見つけたのかうろうろと歩き回りはじめた。 途中止まっている自転車を見上げ、でも違うとわかると再び探し…やがてどこにもサンジの自転車がない事がわかると、途方に 暮れたように駐輪場の真ん中で立ち尽くした。 うな垂れた孤独なその姿は、サンジを叩きのめすのに充分だった。 あの時、重い足取りで背を丸めて帰る小さな後ろ姿を思い出す度に、今でも胸がきりきりと痛む。 どうしてあんな辛い試し方をしてしまったのかと、自分を殴りたくなる。 もっともその後猛ダッシュしてスーパーを飛び出し、半泣きで猫にタックルかまして捕まえたのだが。(いやぁ近所の人の目線が痛かった。) 「お前、俺が来ない時はちゃんとご飯、食べてるのか…?」 「ニャァン」 泣きそうになったサンジの指を小さく舐めて、猫はまるで「心配すんな」とでも言ったようだった。 それからしばらくして、サンジは流行り風邪にかかってしまった。 40度近い熱にうなされ大学も一週間以上休むはめになり、勿論バイトにも行けず。 医者に行くのすらやっとのことで、サンジはほとんどろくな食事も出来ずにふらふらの状態で過ごしていた。 こんな時はいっそう、一人暮らしが辛いと実感する。 水とポカリだけは友人が買ってきてくれたが、それすらなかったら途中で息絶えていたかもしれない。 熱が収まってきた時、うつらうつらしながら布団の中で、ふとあの猫のことを思い出した。 ああ、あのふてぶてしい目つきが懐かしい。 考えてみたら、この10日くらいあのスーパーに行って居ない。 その間、あの猫は…もしかしてまた、毎日俺の姿を探して途方に暮れてるんじゃないだろうか。 誰も居ない駐輪場に、ぽつんと座る後姿。 「……!!」 サンジはがばっと布団を剥いで起き上がった。 思い出したら、とてもじゃないが居てもたってもいられなくなった。 パジャマもそのままに下だけなんとか履き替え、上はマフラーにコートを重ねただけの姿でサンジは家を飛び出した。 外はもう日が落ち冷たい木枯らしが吹いていて、熱の下がりかけた体がぶるりと震える。 筋力もだいぶ落ちたのか、アパートの階段を降りただけでも体がふらついたが、そんなこと気にしちゃいられない。 家には食べるものなんて何もないので、咄嗟に財布だけコートのポケットに捻じ込んで。 ふらふらする体と一緒に蛇行しながらなんとか自転車をこいで、辿りついたいつもの駐輪場。 弾む自分の息が白い。 サンジはきょろきょろと辺りを見回した。 「……っ」 そもそもこの時間にあいつが居るのかわからない。 夜とはいえ、いつもサンジが立ち寄る時間よりもずっと早い。 それにああ、探そうにもあいつの名前も知らない。 こんなことなら決めておけばよかった。 じわ、と不意に襲ってきた寂しさに涙が滲んだ。 「っ…」 風邪のせいで、どこかおかしくなってるんだ。 そんな自覚はあったけれど、止められない。 唇を噛んでぐっと目を擦ったサンジの足首の間を、不意にやわらかな何かがするりと通り抜けた。 「ニァン」 小さなその声にはっと下を向いたサンジの足の間に、片目の猫が座っていた。 「……っ」 サンジはその小さな体にしがみ付くようにしゃがみこんで。 気が抜けたせいかそのまま意識を失った。 * * * シュンシュンと、遠くでやかんのお湯が沸く音がする。 暖かい。 いや、暑いくらいだ。 「ん…?」 ぼんやりと目を開ける。自分の部屋だった。 あの猫に会いに行ったはずなのに、…夢だったのだろうか。 寝返りを打とうとしたら、誰かに背中を抱えて抱え起こされた。 「……?」 熱は下がりかけていたはずなのに、体がふらふらする。なんでだろう。 「治りかけで外なんて出歩くからだ。しばらく大人しくしてろ」 回らない頭で考えていたら、まるで疑問に答えるようにすぐ傍で低く落ち着いた声がした。 「あ…?」 そこに居たのは緑色の髪の、見知らぬ男だった。 藍色の着物から、がっしりと覗く太い手足と胸板。閉じられた左目の上に、真っ直ぐな傷跡。 なんていうか、絶対に一般人じゃないオーラがある。 まるで時代劇から抜け出てきたような、どこかの組の構成員のような。もっとも本物なんて見たことないからイメージだけど。 男はサンジの背中に枕を入れて姿勢を安定させると、胸元にほかほかと湯気を立てる湯のみを差し出した。 ふわりと土や草のような匂いがする。 「苦いだろうがちゃんと飲め」 薬なのだろう。 サンジは大人しくそれを受け取ると口に含んだ。思った程熱くなく、飲みやすい。 「…いい子だ」 男がサンジの頭を静かに撫でた。 子供扱いするな、と普段なら怒るところだが、大きくてごつい手のひらに包まれているとなぜか安心感が込み上げてきて、サンジは 大きく息を吐いた。 「もう少し寝てろ」 空になった湯のみを取り上げ、男がサンジを布団に寝かしつける。 その横顔をじっと見上げれば、男もこちらを見てふっと笑った。 片目だけのその表情に、ふとある姿が重なった。 「……おまえ?」 駐輪場の、あいつ。 いやそんなこと、あるわけないか。 確かめるよりも先に、うとうとと瞼が落ちてくる。 それを促すように、柔らかく温かい何かが額に落とされた。数秒で離れていくそれが寂しい。 「お前になら、飼われてやってもいいぞ」 眠りの淵に誘われながら、心地よく響く男の声。 意味はよくわからない。 「前は用心棒とかしてりゃ金には不自由してなかったんだがな。廃刀令とやらが出てからはどうにもこの姿じゃ暮らし辛ぇし」 はい・とうれい? High-too-rate? なんだっけ、それ。 ああ、でも用心棒とか、まんま似合いそう。 でも、飼う。 飼うなら、今度こそ、名前を決めてあげなきゃ―……。 考えれば幸せな気持ちになって、サンジはそのままやわらかな眠りに沈んでいった。 END |