遠雷 ------------------------------------------------------------------------------- |
「狂い鳥だと」 遠い嵐の海の上を、一羽の青い鳥が飛んでいく。 火の粉を巻きながら飛ぶその姿を、一度だけ見たことがある。 この部屋の中にあるのは小さな窓。 地下にある施設の中で、明かり取り以外で外が見える窓は貴重だ。 その1つ、与えられた自室にある鉄格子の嵌った小さな窓から、自分はその姿を見た。 この島を取り巻く海は穏やかで、雨ですら明るく霧のように柔らかい。 透明な波はどこまでも白い海底の砂を映しながら、永遠を謳う。 どこまでも透明な空、鮮やかな海。 けれど。 小さい部屋に置かれた机の上に上り、膝を抱えて窓の外をじっと見つめる。 遠い水平線の果て、目を凝らさないとわからないが、空の端っこを横一面にずっと染める黒。あれは暗雲だ。 まるで何かを区切るように、阻むように、壁のようにずっとこの海域を取り巻いている。 あの向こうには何があるのだろう。 ぼんやりと思う事がある。 ここに入るには特殊なログを持たないといけないからね、そう言って同じ施設で暮らす人は言っていた。 こつり、冷たくぶ厚い硝子に指先で触れた。 青い鳥は飛んでいく。 この楽園から、きっと冷たく悲しいだろう、外の世界へ。 必死に、もがいて。 ――でもそれはとても、美しいと思った。 遠雷 『仕方ねぇさ…愛する家族を二人も、目の前で…』 施設の中は白く細い通路で幾筋にも枝分かれしていて、居住区を入れると随分広い。 自分が歩く事を許されているのは限られているが、大抵は食堂と自室と、それから毎日1回、体調管理の為に受けなければならないと言われている検査の為に通う医務室くらいだ。 共に住むのは様々な男女。 いや割合としては圧倒的に男の方が多いだろうか。 この建物は地下にあるらしいが、一体どこに地上への出口があるのかもわからなかったし、また探そうとも思わなかった。 何をしたいとも思わなかったし、不自由も感じていない。 もし何でずっとここに居るのかを、理由付けするなら。 『…本当なら狂ってもおかしくねぇんだ。…それなのに、あの人は』 『どんな戦いだって、あんなに血に濡れた姿を見た事は…』 ひそ、と誰かが交わす囁き。 通路を歩き、それを耳に流していた自分の足が、ふ、と止まった。 感覚のまま、目線を上げて白い天井を見上げる。 肌に感じる気配を追うように足を向け、天井を見たまま気づけば入り組んだ通路を駆けていた。 「あ」 角を曲がった所で、遠くの通路から歩いてくる男の姿を見つけた。 瞬間、目が合った。 ――あの人だ。 金の髪に青い目をした、月に1回だけやってくる男。 名前も知らない男だ。 でも何故か――どこか。 何もない自分の中に、唯一ある感覚。 それすら何か、まだ形にすらなっていないけれど。 立ち止まった自分の腕を、無表情な青い目で自分を見下ろした男が強い力で掴んだ。 冷たい目だ。 無言で腕を引かれ、そのまま自室へと連れて行かれると荒々しくベッドに押し倒された。 有無を言わさず重ねられた唇に、条件反射で薄く舌を差し出す。 触れ合った体から伝わる、冷たい外の気配。 わずかな海の匂い。 それから――血の匂い。 けれど同時にふわ、と香る、男自身の匂いに、なぜかふわりと体の力が抜ける。 無意識に小さく笑った自分に、男は何故か苦しそうに眉間の皺を深めた。 シャツのボタンを外すのも惜しいと言ったように、性急に男の指が肌を探る。 その感触に、ゆっくり目を閉じる。 誰だか知らないけれど、月に1回やってくるその男は必ず一晩、こうして自分と触れ合っていく。 「ふ……ぁ、あ」 男は自分以上に自分の体の仕組みをよく知っていて、体は勝手に鳴き声を上げる。 追い詰められ、高められ、体のあちこちに男の牙を立てられる。 痛みと気持ちよさに涙を零す自分に、かけられる男の声はない。 けれど指先だけは雄弁に、自分の体を余すところなく確かめていく。 後から熱い楔を打ち込んだまま、何かの跡を辿るように、ゆっくり男の唇が背中を辿った。 それもいつものこと。 そういえばこの施設で一つだけ不便だと思った事がある。 大きな鏡がないのだ。この施設には、どこにも。 あっても女性が所持する手鏡や、顔だけを見られる小さなものだけで。 自分の腹には、大きく抉れたらしい、ケロイド状の傷がある。 それは体を貫通したように、背中を触れば同じ位置にも皮膚が盛り上がってぐちゃぐちゃに固まったような跡があった。 男はいつも、やわらかくその傷跡を舐める。 獣が傷を癒す時のような行為にも似ていて、男からもたらされるその感触に、酷く安心する自分がいた。 最初は傷跡をなぞっているのかと思っていた。 でも何度も同じ行為を繰り返されるうちに、男の唇は背中の、傷跡以外の部分にまで伸ばされている事がわかった。 まるでそこに描いてある何かを確かめているような。 一体何を見ているんだろう。 確かめたいな、と思ったけれど、鏡がないので仕方がない。 きっと自分が確かめられない分まで男が大事に見てくれているのだろうと思えば、不思議と体の奥の方が暖かくなった。 「まーた散々だなあ」 一人で窓の外を眺める、いつもの部屋。 慣れ親しんだ声に振り返れば、いつの間に来ていたのか、いつもの男がこちらを見て肩をすくめていた。 軽くシャツを羽織っただけの体には、至る所に鬱血が散っていた。 手や足や、服に見えないところまで沢山だ。 傍から見たら確かに凄い有様だろう。 自分自身、痛みと疲労でぐったりしている感覚がある。 噛まれた跡は痛いし、酷使された部分は熱を持っている。 でもそれは決して、酷い気分ではなかった。 むしろ一晩中自分に対して向けられた男の想いは体中に降り注ぎ、足りない自分の中を柔らかく満たして行くようで。 そう言うと、目の前の男は「やってられねぇ」と呟いて天を仰いだ。 壁に凭れてため息をついた男の、奇抜な形の前髪が揺れる。 そういえばあの男と同じ金髪だが、目の前の男だの方が随分華やかな色に見える。 「お前らは全く、根本は変わってねぇんだ」 気のせいか、その声はどこか嬉しそうだ。 「でもな、あいつ、寝てないんだわ」 前に長く突き出してまとめた髪を撫でつけながら、なんでもないように男が言う。 「……俺のとこじゃ、まるで死んだみたいに寝てるぜ」 自分が知るあの男は、自分を抱いているか寝ているかのどちらかだ。 ふと目を覚ませば必ず、男は自分の体に手を回し、抱きしめるように寝ている。 必ず、自分の左胸――心臓に耳を押し当てたまま。 何かを確かめるように、一晩中、ずっと。 「……泣いてる子供みたいだ」 ぽつり、そう言った自分に、目の前の男の方がまるで泣きそうにくしゃりと笑った。 「本当は、泣きたいんだろうよ。――いや、」 見えないだけでずっと泣いてるのかもしれねぇな。 男が静かに吐き出した言葉は、静かに胸に染みた。 「でもアイツはほら、アホみたいにプライド高いからな。肝心なとこで……お前みたいに」 もうとっくに……知ってるだろ? 秘密めいた言葉と共に、男がす、と胸元から四角く平たいものを取り出した。 二つ折りになっていたものを開けば、大きな両面鏡が自分の顔を映し出す。 情けなく歪み、静かに泣く自分の。 「背中、見るか?」 からかうように言う男の言葉に首を振り、ぎゅ、と目元を拭った。 「……っ」 本当は気づいていた。 でも気づきたくなかった。 取り戻せないものの大きさ。 最後まで愛されたまま、なのに、誰にも愛を残せないまま。 自分の無力さと、身勝手さに、泣いていたのは自分だ。 鏡なんてなくたって、本当はいつだって。 「なぁ、…っ今度から、俺んとこじゃなくて、オッサンのとこ…行ってよ」 震える声で言えば、男はハン、と鼻で笑った。 「女ならともかく何で俺がオッサンに纏わりつかにゃならねーんだ。お断りだね。お前だって特別大サービスなんだぞ」 男の、変わらぬ言葉に小さく笑う。 「……なんてな、実は追い返されたんだ。 『お前こんなとこ来てる暇あるならアイツ見張ってろよい』 …て、な」 男の言葉に、拭った端から、ぼろり、また熱いものが零れた。 「ありがとう……サ」 「おっと」 男が手の平を突き出し、言うなとジェスチャーする。 「思い出したなら、まずはアイツの名前を呼んでやれよ」 俺が先に呼んで貰ったって知れたら殺される。 「……わかった」 笑った自分に男は満足そうに笑うと、すっと静かに溶けて消えた。 目が覚めて見えたのは、いつもの白い天井。 格子の窓から見える空はまだ薄暗い。 小さく硬いベッドの上、自分の体を抱きしめる男を見下ろして、唇が震えた。 やつれ、目の下には影が落ちている。 あれだけ堂々と揺らぐ事のなかった男が、寝息すら音もなく、ただ自分だけをきつく抱きしめて。 「……っ」 どうして忘れてなんか、いたんだろう。 胸に込み上げた想いに、ぼろりと目の端から熱く零れた。 「……、…ッ」 は、は、と言いたい言葉が出ず、呼吸だけ空回りする。 沢山の想いが渦巻いて、声にならない。 胸を喘がせる自分の気配に、顔を伏せていた男の目が薄っすらと開いた。 その蒼が、驚いたように自分を捉える。 その瞬間、どっと涙が溢れた。 「……マルコッ…――!」 叫んだ自分に、マルコの目がくしゃり、歪んだ気がした。 けれど次の瞬間太い腕に閉じ込められて。 エースは狂ったように男の名を呼びながら、その背を固く抱きしめて爪を立てた。 |