こごえる空の下の、あたたかな。 |
表に出ると思いのほか冷たい木枯らしが吹いていて、ゾロはジャケットの合わせを締め直した。 まだ夕方の始めだというのに酷く寒い。吐く息も白く、大通りの方からは眠らない町の賑やかな夜の声がかすかに聞こえてくる。 バイトを終えた店の裏口から歩き出して、ゴミ袋の雑多に積まれた細い路地から空を見上げる。 灰色の空はどんよりと低く、今にも雪が降りそうだった。 ゾロは白い息をふっと吐き出して、冷えた両手を擦れたジャケットに突っ込んだ。 そういえばクリスマスが近い。 そう思うのは、クリスマス商戦を早々と打ち出している店が多く、店頭に赤や緑や金色の飾りが目につくからだ。 その明るさに、わずかに目を細める。 眩しいと感じるのは、何故だろうか。 ゾロには2年以上前の記憶がない。 血まみれのまま道端で倒れているのを発見されたときには、既に名前以外の全てを失っていたらしい。 しばらくは警察で事件との関わりなどを調べられたが、結局病院や施設、家出人の名簿にもヒットせず、家族はおろか身元もわからないままだった。 記憶が混乱していたのかしばらくは身の回りの、例えば金銭の使い方や交通ルールに関する動作がおぼつかなかったが、しばらく施設でリハビリを行い、今ではその施設が提供してくれたアパートで一人暮らしもしている。 だから懐かしく思うような感情など、何ひとつないはずだった。 日中は土方仕事、夜は飲食店のホールの裏方と、休む間もなく働く。 何処で鍛えていたのか体力と筋力だけは申し分ない体つきだった自分に感謝した。 力いっぱい働いて、働いて。 くたくたになって眠るだけの日々。 なのに。 時々自分の大きな手のひらをじっと見つめて考える。 何かが足りない。 もっと何か大きなものを掴むために、自分は―――。 けれどそれが何なのか解るはずもなく、いつもただぎゅっと拳を握り締めていた。 ふと。 呼ばれたような気がした。 「……?」 ゾロは足を止めて、路地を振り返った。 暗い道にはシンとした寒さが息を詰めているだけだ。 辺りを軽く見て、そして再び空を見上げた。 高く、どこまでも行けると思っていたはずの空は、今ではもう見えない。 (行けると、思っていた……?) 小さく首を振って、ゾロはそれ以上の考えを打ち切った。 だんだんと体の芯が冷えてくる。早いとこ帰って、飯を食おう。 そう再び歩き出そうとした時。 何かが。 ゾロの足を止めさせた。 灰色の空の下。 見えたわけでもない。考えたわけでもない。 ただ体が、勝手に動いていた。 それが来るのを、感じていた。 何かを受け止めるように両手を前に、真っ直ぐ虚空に向かって広げた。 その瞬間。 ふわり、と。 瞬きをしたその一瞬の間に。 ゾロの腕の中に落ちてきた黒いもの。 「ッ……!?」 驚きに声を無くすゾロの手の中、トサッと小さな衣擦れの音と共に収まったのは。 黒いスーツにきちんと締められたネクタイ。左眼を覆い隠すように流れた金髪は短い…… ……一人の男、だった。 丁度ゾロの手が背と膝裏部分に差し入れられたような形で抱きとめたそれは、ゾロと同じくらいの身長はあるだろう、確かに人間の男のように見える。 閉ざされた瞼や首筋はとても白く、触れたら消える雪を思い起こさせた。 意識した途端、支えていた両手がずしりと重みを受け止めた。 慌てて腰に力を入れて前に倒れそうになるのを踏ん張り、伸ばしていた手を引き戻して胸元に抱えこむようにその男を抱きとめた。 ふわりと触れたかすかな温かさに、男が生きていることを知る。 頬に触れた柔らかい金髪から、わずかに潮の香りがした。 ドクン。 胸が、騒いだ。 ひどい眩暈のような衝動が何故か胸元を競りあがる。 (なん……だ、これは…コイツは―――) 「ぅ……」 男がうめいた。片方しか見えない瞼が、ゆっくりと持ち上がる。 ぼんやりと宙を泳いだ目線が、ふっとゾロを捉えた。 その目は吸い込まれそうなほどの青。 「……ゾロ…!」 青い目が、大きく見開かれた。 何もかも曖昧だったこの世界で、初めてゾロの心に届くような、真っ直ぐな色だった。 男は驚いたように、けれど心もち頬を上気させて上半身を起こした。 突然空中から現れた見知らぬ男。しかも自分の名を知っている。そんな異常な事態に唖然としながらも、ゾロは目の前のその男の表情から目を離せないでいた。 くるりと先端の巻いた眉毛がふにゃっと下がり、男の唇が震えた。 「やっと、……見つけた…!」 あ。 泣く。 そう思った瞬間、しかし男はくしゃりと笑った。 金色がとろけるような、ひどく心の奥深くに暖かく染みる。 それは懐かしさ。 知っている。 自分は確かに知っている。 真っ青な空。 白い雲。 揺れる大海原に、照りつける太陽。 そして仲間達の笑い声―――。 ざっと脳裏に溢れた光景。そして心を揺する感情に目を見開いたゾロの首に、ぎゅっと男の両腕が回された。 互いの空気が交じり合うように、男の体温がゾロと溶け合う。 何かを確かめるように、強く男の手がゾロを掻き抱いた。 「チクショウ、てめぇ、今日は誕生日だろうが……主役が居なくて、どうすんだ…!」 泣きそうに掠れた声が耳元に落ちる。 耳に優しい、低い声だ。 「たん…じょうび……?」 呆然と呟いたゾロに、男は柔らかい金髪をゾロの首に擦り付けるように埋めて、そして笑ったようだった。 「……そうだぜクソ剣士―――誕生日、」 『おめで、とぅ―……』 最後に囁くように言った後、突然ガクリと抱えていた男から力が抜けた。 「……おい!?」 ずるりと崩れ落ちた男の体を、慌てて抱きとめる。 何事かと息を詰めて様子を探ると、しかし合わせた胸はしっかりとした鼓動を刻んでいて、耳元から男の寝入ったような安らかな呼吸が聞こえてきた。 ゾロはほっと胸をなでおろした。 辺りはシンとした冬の気配に包まれたまま、路地裏には人の気配もない。 空中から、いや空からだろうか、突然現れたこの男。 夢のような、けれども夢ではない証拠に暖かく呼吸する体。 ゾロはじわっと、手の中の存在を抱きしめる腕に力を入れてみた。 誕生日だと、さっき男は言った。 ならこの男はなんだ。神なんて存在は信じたことはないが、もしかしてこれは天からの賜り物というやつだろうか。 誕生日の、贈り物。 いつも何かが足りないと思っていた。 酷く乾いた、味気ない毎日。 そこにただ生きるだけの、無意味な自分。 でも。 きっと再び、何かが始まる。 世界が音を立てて回り出す。 そんな予感を胸に、ゾロは手の中の存在を大事に抱えて再び歩き始めた。 眠る男の背を包むゾロの両手は、もう。 冷たくはなかった。 |
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