携帯電話  (後編)
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「……居ない、って、まさか」
『あー…死んだ、とかじゃない。……多分。まぁあいつに限って生命力だけは無駄にありそうだからそれはないだろ』
 その答えに、ぎゅっと掴まれたようだった心臓がほっと緩む。
 けれど安否すらわからない程、向こうのサンジはゾロと会っていないのか。
 サンジがゾロと出会ったのはまだお互いが小さい頃だった。
 幼馴染であり、友達であり、常にサンジの隣にいた存在。それはいつの間にか言葉に出来ないほど大切な相手になっていて。
 サンジはふっと顔を上げて、ゾロを見た。
「……?」
 眉間に皺を寄せたゾロがサンジを見返す。
 太陽を受ける眩しい緑の髪を、サンジは目を細めて見た。
 自分達がこうして寄り添うまでには、そりゃぁ紆余曲折はあったものの、ゾロは今こうしてサンジの一番身近に居てくれる。
 ゾロが居ない世界なんて、考えた事もなかった。
 
 
『……なぁ、お前さ』
 沈黙を破ったのは向こうのサンジだった。
『あの時、どうした?』
「……あの時?」
 
『高校卒業前の冬休みの……あの日だよ』
「……ッ」
 
 その言葉に、サンジはぎゅ、と携帯を握る手に力を込めた。
 卒業式を目前にした、冬休みも終わろうかというあの日。
 雪が降りそうなどんよりとした曇り空の日だった。
 誰も居ないゾロの家で、お互いが自分達の関係に意味を持たせるべきか迷っていた。
 あの日。
 
 サンジは最初、ゾロの手を取る気はなかった。
 ゾロは大学、自分は専門。寄り添ってきた自分達の道が初めて分かれる時だった。大人になる一歩手前の自分達。
 そこから先に広がる未来はなんだか途方もなくて、どこまでも男同士で…ゾロと2人だけで歩いて行けるなんて、考えられもしなかった。
 サンジなりに小さな頭をフル回転させて、現実ってものを受け入れようと沢山悩んで沢山考えた結果だった。
 
 だけどあの日、あまりにも一生懸命ゾロが自分に手を伸ばしてくるから。
 だからどうしても堪らなくなって、サンジも震える手を伸ばしてゾロの体を抱きしめたのだ。
 
 
『俺は……抱きしめらんなかった』
 電話向こうのもう一人の自分が笑う。
『絶対こんなの、ゾロの為にならないって…』
 言ってから、サンジは否、と言葉を切った。
『……違う、怖かったんだな。覆いかぶさってくる、いつもと違う顔したゾロとか、これから待ち受ける未来とか、ジジィの顔とか、なんか色んなもんが浮かんでさ』
「………」
 わかる。それは全部、サンジもあの時感じていた事だ。
 だけど、サンジは全部忘れた。
 抱きしめたゾロの押し当てた胸から伝わる、まるで全力疾走した後みたいな早い鼓動に、その全部を無理矢理考えない事にした。
 
 
『気づいたら、ゾロ蹴飛ばして、逃げてた』
「……っ」
『多分、そこが、分かれ道なんだろうなぁ』
 俺とお前の。
「その後、ゾロは…?」
『さぁ……卒業と同時になんか外国に渡ったらしいけど、それきり』
 
 あはは、と電話の向こうでサンジが笑う。
 けれどサンジにはわかる。だって自分だから。
 それがどんなに寂しいか、どんなに傷ついているか。
 
 どんだけ自分を責めて、後悔しているか。
 
 
「……おい!?」
 ぐ、と堪えたが間に合わず、目の端からぽろりと涙が零れた。荷物を抱えたままゾロが脇でぎょっと目を剥く。
 サンジは目元をグイと携帯を握ったままの手で拭うと、そのままズイ、と携帯をゾロに突き出した。
 
「……薄情もん」
「アァ!?」
 ゾロが青筋を立てる。わかってる、ただの八つ当たりだ。
 状況も意味もわかってないゾロなのに、でもサンジは言わずにはおれなかった。
 あの時ゾロの手を取ってよかった。ゾロが居なくなるなんて。そんな未来があったなんて。
 選ばなくてよかったという安堵。そして一歩選択を間違えていたらという恐怖。
 だけどどうして向こうの自分にはゾロは居てくれないのか、そんな憤り。
 今の自分じゃないけれど、だけど、なんでこんなに悲しい未来でなくてはならないのだろうか。
 それを選んだのは自分だと、わかってはいるけれど。
 
「電話、代われ」
 サンジが言えば、ゾロの眉間の皺がさらに増える。
「……誰だ」
 テメェを泣かせやがってたたじゃおかねぇ。わかりやすくそう顔に書いてあってサンジは笑った。
 喧嘩前のような気迫を出しながら携帯を受け取ったゾロのその愛情に、益々泣きたくなるのを堪える。
 
「俺」
「はぁ?」
「どっかの世界の、俺」
 ゾロの目線が途端、なんだか可哀想なものを見るようなものに変わった。
 暑さで頭イカれたのか、って顔だ。
 この野郎、後で覚えとけ。
「俺なんだけど、こっち俺は…あの日、テメェが告ってきたあの日な……お前のこと、振っちゃったんだって」
「……」
「そしたらテメェ、消えてどっか行っちまったんだって。あれきり居なくなっちまったって」
「……」
「……薄情もん」
 
 ゾロは神妙な顔で電話を受け取ると、耳に押し当てた。
「おい…?」
『……ゾ…ッ?』
 
 向こうのサンジが息を飲む声が聞こえた。
 多分ゾロにも、それだけで相手が本当に俺なのかわかったはずだ。
 癖の一つ、呼吸の一つですら俺たちは互いを認識できる。それほどまで、ずっと傍にいた存在なのだ、ゾロは。
 ゾロはあー、とかうーとか、しばらく言いよどんだ後、スゥッと息を吸い込むとはっきりとした声で言った。
 
 
「大丈夫だ」
 まるで向こうのサンジが見えているかのように、背筋を伸ばしてまっすぐ前に向かって言う。
 
「いいか、俺がテメェに惚れたのは初めて会った時だ。見事な一目惚れだな。そっから軽く15年以上、テメェ1本だ」
 オカズも色々含めてな、なんて真昼間の公道で言う台詞じゃねぇもんまで飛び出したが、まぁそれには目を瞑る。
 
「そんな俺が、そう簡単にテメェの事諦めるはずねぇだろ」
 向こうのサンジに言ってる言葉なのに、それはなぜか自分の心も締め付ける。
 
「一回拒否られたぐれぇで諦めるような、俺はそんなヤワな根性はしてねぇ」
『……ッ』
 向こうのサンジが声を詰まらせるのが聞こえた。
 
「だから絶対いつか、帰ってくる」
『……、ゾロ…ッ』
 
 
 ザザッ…と電波がゾロの声を攫った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『だから……ンジ…』
「ゾロ……ゾロッ」
 急に電波が乱れ、サンジは強く耳に電話を押し付けた。
 久しぶりに聞いたゾロの声、ゾロの息遣い。
 その全てがサンジを、心の奥から震わせる。こんなにも自分はゾロを求めていたなんて、改めて思い知らされた。
 体中がゾロを求めて叫び声をあげている。欠片もその声を漏らさぬよう、サンジはひたりと耳の奥の気配を探った。
 
 ザザッと電波状況が戻って、再び相手の息遣いが傍に聞こえた。
「………っ」
 サンジはもつれる舌先で、震える呼吸を吸い込んだ。
 どこかの世界にいる、ゾロ。
 それはそっちの世界の、もう一人の俺のもの。
 自分には選べなかった世界。
 自分の元には居ないゾロ。だけど。
 
「ゾロ…ッ、てめぇ、今でも、俺の事……好き、かな…ッ?」
 溢れた言葉と一緒に、熱くなった両目の視界が揺らいだ。
 
「…ッ、会いてぇ」
 長年溜め込んでいた言葉が喉を詰まらせる。
「会いてぇよ、ゾロ……」
 電話の向こうでゾロが息を飲んだようだ。
 しゃくりあげる呼吸を飲み込んで、サンジは汗ばんだ手で受話器を握り締めた。
 
 こんなに素直に感情を吐露したことなんてなかった。
 いっつもプライドが邪魔をして、自分自身の気持ちをぶつけたことなんてなかった。
 いくら悔やんでも、ゾロはもう居ない。
 違う未来を選んだ自分の傍には、ゾロはちゃんと居てくれたのに。
 ああ、自分ももっと素直に、あの時手を伸ばしていたら。
 
「俺も…会いてぇよ、てめぇに」
「なんで俺の隣にお前がいないんだろう」
「なんでこんなに寂しいんだろう」
「なぁ、なんでどこにもいねぇの」
「今すぐ会いたいよ」
「会いたいのに…ゾロ…ッ」
 
 
「俺だって、ずっと好きだ……ゾロ」
 
 誰も居ないひんやりとした廊下で、サンジは受話器を握り締めたままずるずると膝を付いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 バン!と息を乱しながら、サンジは自宅の玄関を開けた。
 夏の日差しを遮った家の中は、薄暗くひんやりとしている。
 正面の廊下、左手にある階段脇の壁際に設置された電話置き場。
 その前には誰の姿もなかった。
 
 ハァ、ハァ、と自分の呼吸だけが煩い。ひんやりとした家の中には、誰の気配もない。
 振り返ったゾロが、小さく首を振った。
「切れちまった」
 急に電波が乱れ始め、ゾロと慌てて家までの残りの道を走ってきたのだ。
 この世界には居ないだろうことはわかっていても、もしかしたら何かが。そんな想いが捨て切れなかったからだ。
 
 サンジはハァッと息を吐くと、玄関の上がりかまちに座り込んだ。
 冷やりとした汗を拭い、呼吸を整えながらじっと外を見つめる。
 ミーン、ミーン、思い出したように鳴き出した蝉の声。
 開け放った空の向こうは真っ青だ。
 
「……おい」
 両手の荷物を降ろし、ゾロが隣に座った。
「泣くな」
「泣いてねぇよ」
 間髪いれずに言ったのに、反してずず、と鼻が鳴った。
 サンジはぐいと目元を拭って空を睨んだ。
 
「だって、なんか……切ねぇ」
「……」
 ゾロも黙ってサンジと同じ姿勢で空を仰ぐ。
 
「だって、もしかしたら今ここに、テメェは居なかったかもしれないんだろ?そんなん考えられねぇよ……」
 小さく息を吐いて、ゾロがサンジの頭を抱えた。
 逆らわず、その肩に頭を乗せる。
 互いの汗ばんだ体温が熱かったが、それすら今は心地よかった。
 
「あっちの俺は、お前のいない生活をずっとしてくんだろ。そんなん、寂しいだろ……怖えよ」
「大丈夫だって言ったろ」
 ゾロの太い指がサンジの頬を拭った。
「俺の事は俺が一番わかる。あっちのゾロだって、絶対ェお前の事諦めねぇはずだ」
「……そうかな」
「ああ」
「…だよな。お前、本性獣だもんな、俺様のこの溢れる魅力を忘れられるわけねぇよな」
「ああ」
「いやそこは冗談だから否定してくれ……」

 そして開け放った玄関先で二人、馬鹿みたいに笑いあった。
 だけど涙はしばらく止まらなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……わ、わりぃ…ッ」
 しゃくりあげる呼吸をなんとか落ち着かせながら、サンジは受話器を持ち直した。
 まるで子供みたいに涙を鼻水をすすりながらの号泣だ。向こうのゾロだってさぞビビッただろう。
 あーかっこわりぃ。全力で泣いちゃったぜと照れながら目元を擦れば、電話の向こうでゾロが何かを呟いた。
『……か』
「…え?」
『それは、ほんとか』
 ゾロの声がくぐもっている。
 
 サンジが小首を傾げると同時に、メキッと何かがひしゃげる音がした。
 え、と振り向いた瞬間、左手にあった玄関の扉が豪快に倒れた。
 
「………ッ!??」
 ひくっと、一瞬涙が止まった。
 真っ赤に泣きはらした目で見つめる先、玄関の扉を踏み付けて仁王立ちしていた男。
「……っ」
 ぱか、とサンジは呆けたまま口を開けた。
 片手に海外旅行用のトランクケース、片手に携帯を握り締めたゾロが、なんだか日焼けでもしたような赤黒い顔でサンジを睨んでいた。
 
 
 頭が真っ白になった。
 夢かな、なにこれ、ゾロだ。
 え、ゾロ?
 向こうのゾロ?
 来て…くれたのか?
 
 顔を赤黒くしたゾロは、トランクをその場に置いてずんずんとサンジの方に近づいてくる。
 
(あ、それ、俺のけーたい。)
 その手に握られたものを見て、サンジは呆けた頭で思った。
 北海道に行った鼻の長い友達が冗談でくれた、緑のマリモストラップ。
 随分昔に貰ったそれを机の隅から発見した時は、なんだか誰かを思い出して笑ってしまったけど。未練タラタラな俺の証。
 
 考えていたら、すぐ目の前にまで来ていたゾロに、ぎゅううっと骨が折れるくらいの力で抱きしめられた。
 押し付けられた胸の中はどこか異国のような見知らぬ匂いがして、サンジの目から涙が溢れた。
「……ッ」
 ああ、これはやっぱり俺のゾロじゃない。
 その事実にますます悲しくなって、苦しくなって、サンジは喉を詰まらせた。
 冷たくなった指先を握り締める。
 
「空港で」
 サンジを抱きしめたゾロが、たどたどしく話し出す。
「今日着いたんだが。そしたら、手荷物に知らねぇ携帯が、入ってて」
 ぎゅ、と益々サンジの体が抱きしめられる。
 太い腕。熱い体温。
 まるで逃げるなとでもいうかのような抱擁に身を任せ、サンジはぼうっとその声を聞いていた。
 流れる涙がゾロのシャツを静かに濡らして行く。
「どうしたもんかとそのままタクシー乗って、そんで取りあえずここまで帰ってきたんだけどよ」
 
「この近くまで来たら、それが突然鳴り出して…」
 ゾロの手のひらが、まるで確かめるようにサンジの形をなぞった。
「そしたらあの大告白だろ…何がなんだが訳わらんが…とりあえず、あの言葉は本当だな」
 言いながらグイ、と上を向かされた。
 真っ直ぐなゾロの視線が、真意を問うように涙でぼやけたサンジの視界の奥に入り込んでくる。
 
「俺もだ。頭冷やす為に外国行って修行してみたりしたけどよ、テメェを忘れる事なんてやっぱできねぇ。もう2年前とは違う……今度こそ逃がさねえからな」
 ぼろ、と大きな涙が一つ、サンジの頬を伝った。
 
「サンジ」
 
 まるで存在を確認するかのように呼ばれた、その名前。
 
 サンジの手のひらからゴト、と音を立てて受話器が床に落ちた。
 代わりに今度はゾロの胸に耳を押し当てて。
 
 サンジは今度こそ両手で思い切り目の前の体を抱きしめると、大声でその名を呼んだ。
 
 











* END *








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09.09.03