僕の中の宝石 2 ------------------------------------------------------------------------------- |
(……駄目だ) 丸テーブルの上、指輪の箱の前でサンジは呆然と立ち尽くした。ナミさんが瘴気を抜くために描いたのだろう魔方陣、その中でなら何か手があるのではないかと思ったのだが。 その中心に入ってぎゅうぎゅうと輪をひっぱってみても、指輪の拘束が緩くなる気配はない。それどころかもう首まではサンジの手一つ分の余裕しかない。 差し込んだ手の甲にじりじり指輪が食い込んで来るのがわかって、サンジはますます青くなった。 (もしかして俺はこのまま……呪い殺されちまうのかな) その時ドッとテーブルが揺れて、サンジの背後にゾロが飛び乗ってきた。 「……ッ!」 慌てて見を翻したサンジの視界いっぱいに広がる、ゾロの大きな爪。 捕まったら終わりだった。 所詮お互いはネコとネズミ。 追いかけっこをしているうちは追うものと追われるもの、時に単純な喧嘩相手。 しかし捕まれば、それは捕食者と獲物の関係に代わる。ゾロにとってサンジは只の小うるさいネズミでしかなく、首に牙を立ててがぶりとやってジ・エンドだ。邪魔なネズミ一匹片付けただけの作業でしかない。 それどころか、一度サンジが巣穴に戻ってしまえばゾロの方からは手出しする術も理由もなくなって関係はリセットされるが、がぶりとやられてしまえばもう二度とリセットはされない。 こんな日常は、もう二度とやって来ないのだ。 あたりまえの、簡単なことだ。けれど。 サンジにはゾロと追いかけっこをしている間だけが、ゾロと対等でいられる時間だった。 ゾロが自分をしっかり認めてくれるまでは、それまでは、ゾロにだけは絶対捕まるわけにはいかなかったのだ。 (でも、こんな、こんな終わり方をするのなら) サンジはふっと跳躍するための脚の力を抜いた。 途端に背中から大きな前足が振り下ろされて、サンジの体はテーブルに横っ飛びに打ち付けられた。そのままバンッと容赦なくのし掛かってきたゾロの手の重みに肺が潰されて、サンジの視界に一瞬霞がかかる。 「ぐッ…」 押し出された空気にげほげほと荒々しく咳き込むサンジに、何故か慌てたように背を押さえつけていた足の重みが引いた。 (なに、ビビってやがんだ?) らしくないゾロの動きに、いつものサンジならその隙をついて逃げ出しているところだ。しかし今のサンジにはそんな気はなかった。 抵抗する様子のないサンジを、ゾロがもう一方の手で器用にひっくり返した。爪を引っ込めてはいるけれど、生暖かい大きな肉きゅうの裏はザラザラしている。 指輪の宝石が頭の後にあるせいで、サンジは上半身を起こした形になってゾロを見あげた。 「へへ…とうとう、マリモに捕まっちまった、ぜ」 サンジはできるだけふてぶてしく、にやりと笑ってみせる。 見下ろすゾロの眉が険しく寄った。 「テメェ、今のなんで避けなかった」 「あぁ?避けて欲しかったなら最初からそう言って攻撃しろよ」 ハッ、ハッ、と浅い呼吸を繰り返しながらサンジは挑発を止めない。首と輪の間にはもう指1本入るのがぎりぎりだ。 「そうじゃねぇ、あの間合いならテメェなら避けられたはずだろうが」 「ごちゃごちゃうるせぇな、どっちにしろてめぇの勝ちだ……ホラ一噛みにがぶっとやれよ」 「……」 「あ?テメェもしかしてごろごろ転がしたりして少しずつ嬲るのが好きなのか?そういう猫ちゃん結構いるけどよ……勘弁してくれよ」 サンジは青い顔をしつつも馬鹿にしたように溜息を吐いてゾロを見あげてみせた。 「……違う」 「…?」 ゾロは苦々しくそう呟く。サンジが疑問を浮かべた顔で見つめると、今度ははっきりとした低い声で、テメェを噛む気はねぇ、と言った。 「は…?噛む気ないって、じゃどういう訳で追いかけてたんだよ。俺なんかをよ」 言外に、猫がネズミを追いかける理由なんてそんなもんだろうというサンジに、ゾロは困ったように押さえつけていた手をどけて、きちんと座り直した。 「訳なんか特にねぇよ。ただてめぇが嬉しそうにアホ面引っさげて近づいてくっから……」 ゾロはなんだか歯切れ悪く、ばつが悪そうに緑の頭をわしわしと掻いた。 「追いかけること自体が楽しかったっつうか、そりゃそのピカピカした金髪に触りてぇとは思ったがよ、別に噛んでどうこうしようとかじゃ……」 (なんだよ、……それ) 突然の告白に、サンジはぱちくりと目を瞬かせた。 「……俺に、触ってみたかったのか」 「おう」 「俺こう見えてもネズミなんだけど、がぶっとやっちまいてぇ、みたいな本能とか…」 「別に相手がなんだろうと、強い相手と喧嘩するのは楽しいだろうが。ていうか俺は仕留めるために喧嘩してたわけじゃねぇ」 じっと見つめるサンジの目線を大きなゾロの目が見返す。 「てめぇだってネズミのくせに逃げもせずにネコなんかに向かってきやがって。本能とかどの口で言いやがる」 (そんなの……じゃあコイツも、俺と、同じだったってことかよ) 喧嘩してた毎日。それしか触れ合える術はないと、捕まったらそこから先はないと思っていた。 でももし、ちょっと逃げる足を止めて振り返ってみていたなら。 憎まれ口を叩かずに、ただそっと近づいてみていたなら。 (そのふかふかな毛並みに、体を寄せて笑いあうこともできたんだろうか) サンジの見開いた目からぼろっと涙が零れた。 ぎょっとしたようにゾロが目を剥くが、サンジはそのままへらっと笑って見せた。 「へへ……テメェがらしくねぇこと言うから、おかしくて涙出ちまったよ」 そしてよろよろと起き上がると、ゾロに向かって手を伸ばす。ゾロはちょっと驚いたように身じろぎしたが、その場を動かずサンジの動向を見守っていた。 ふさ、とやわらかい毛並みが手に触れて、サンジは鼻をすりあげて笑った。 「俺なぁ、テメェにこうして触るの、すげぇ、夢だった」 とすんと頭を持たれかけさせたら、長い毛足はサンジの顔をすっぽりと覆い隠してしまう。地肌からはどくんどくんと熱いゾロの鼓動が聞こえてきて、サンジはますます嬉しくなった。 「…実は、さ。もう一個、夢が…あるんだ。ついでに叶えてくれねぇかな?」 「……なんだ。俺にできることか」 ゾロの声が、ゾロの骨や血や体を通って押し付けた耳の奥から低いうなりとともに聞こえてくる。やわらかい緑色の絨毯から顔を上げると、サンジはまんまるくて大きなゾロの目をはっきりと見て告げた。 「……食べて、くれねぇ?」 俺をさ、まるごと、ぱくっと。 そう言うとゾロの目つきがみるみるうちに険しく歪んだ。 「だからそういうことをしたいんじゃねぇって…!」 「そう…だけど、わりィ、もう時間が、ねぇ……みてえ」 首と輪の隙間にはもう指の1本も入らない。 その時になってゾロはようやくサンジの青い顔に気がついた。白い首に食い込む金の輪に眉を吊り上げる。 「てめぇ、それ…!」 「……な?もう無理、だろ。だからさ」 「ふざけんな!なんでてめぇはいっつもそう一方的なんだ!待て、その指輪…ナミの魔法書になんか書いてあったはずだ」 それまでのんびりサンジの話を聞いていたゾロの態度が急変した。慌ててサンジの体を攫い胸元に抱き寄せると、そのまま一直線にテーブルを飛び降りて駆け出す。ゾロの毛並みに混じってサンジの金髪も風圧に流される。サンジはその勢いに苦笑いしつつ、初めてゾロの方から自分の体に回されたその腕をトントンと優しく押しながらせがんだ。 「それより早く、テメェのその、牙で」 「うるせぇ!黙れ!!」 その間にもぎゅうぎゅうと首が絞まってきて、だんだん呼吸が苦しくなってきた。視界がちらちらとし始め、色を無くしてゆく。 (ヤベ……) ゾロの腕に顔を埋めるように、サンジはずるりと体を預けた。 急にぐったりとしたサンジに気づいたのか、ゾロが足を止めた。そして両腕で正面に抱き上げられる。 ゾロの真剣な顔がすぐそばにあって、サンジはその小さな、ゾロの何分の一にも満たない手の平を一生懸命差し出した。 自分の小さな胸に溢れてたまらないこの気持ちが、少しでもこの大きな生き物に伝わればいいと思って。 「俺さぁ、ホントに、ずっと、テメェになら、喰われてみてぇなっ、て、思っ……」 「馬鹿野郎が!そういうことは……もっと別の時に言いやがれ!」 ゾロが吼えて、そして大きく口を開けた。 光る牙が眼前に迫る。 サンジは小さく笑って、そしてそっと目を閉じた。 骨に響くような強い衝撃。 何かがみしゃりと潰れる音。 首の後が燃えるように熱くなり。 そしてぱぁっと目の奥で弾けた真っ青な光の洪水に意識が飲み込まれた。 ざりざりと何かが顔を舐めている。サンジの頬を辿っていた暖かいそれはやがて上唇をゆっくりとなぞり始め、促されるままに小さく口を開けると、するりと乾いた口腔に滑り込んできた。 『……』 舌を舐めては潤すその感触に、サンジはうっすらと目を開けた。しかし視界はただ明るいばかりで、何も捉えられない。 でもこの鼻をくすぐる気配は……ゾロの匂いだ。 『何…してんだ』 合間に漏れた自分の声。それは随分とかすれていて、自分のものなのにやたらと遠くに聞こえる。 『喰ってるんだ。喰われたかったんだろう、俺に』 今度は随分近くでゾロの声が応えた。 サンジは納得した。どうやら自分は今、ゾロに喰われている最中らしい。 しかし想像していた感覚とは大分違う。体の内の方が指先までジンジンと熱を持っているものの、暗闇に落ちるような鋭い痛みも襲ってこない。それどころか全身の意識は真っ白くて明るい霧の中にいるようにぼんやりとしていて、まるでふわふわと暖かいものに包まれているようだ。 『なんか……気持ちいいな』 ゾロの気配が困ったように押し黙った。代わりに首筋をかぷりと甘噛みされる。 『おい、ゾロ……』 『……なんだ』 『俺は……美味いか?』 『……うめぇ。すげぇうめぇ。もっと喰うからな。これから、いつでも』 ぐるぐるとうなるようなゾロの声。 『そうか……よかった』 サンジはほっと体の力を最後まで抜くと、にこっと笑った。 もしも不味かったら食ってもらうゾロに悪いなと思っていたが、それならもう思い残すことはなかった。 ソロの気が傍らでぐわっと脹れ上がったのがわかった。 『てめぇ……後で覚えてろよ!』 のどの奥で怒ったような唸り声を上げて、ゾロがサンジに襲い掛かってきた。 下半身に痛みと熱さが広がって、目の端から勝手に涙が零れる。 それでもサンジは嬉しくて、意識を手放す最後まで笑顔でゾロを放さなかった。 そよそよと風が揺れている。 サンジはぼんやりと目を開けた。泣いていたのか睫毛がばりばりするのを引き剥がしてこすりながら、目を瞬かせる。 目の前に草原が広がっていた。 ここが天国ってやつなのだろうか。 揺れる緑を見ながらぼうっとしいたら、草原が波打ってごろりと寝返りを打ち 「目ぇ覚めたか」 向こうからひょっこりゾロの顔が現れた。 「……ゾロ?」 サンジは目をもう一度ごしごしこすった。だってなんだかゾロの顔が小さい。 サンジとゾロの体格差はかなりあったはずだ。サンジが見あげればその口はサンジを一飲みにできるほど、目も吸い込まれそうなほどに大きく、。 それが今目の前のゾロはサンジと対等の大きさでこちらを見つめている。 「えと……これ夢?だよな…だってお前そんなに縮んでるし。凄ぇ、ネズミサイズのゾロ」 これで喧嘩しやすくなったなぁ、なんてぼけっと呟くサンジの、ちょっとぼさぼさになった髪の毛が窓からのそよ風でひよひよとなびいている。それをアホっぽいなと眺めながらゾロは首を振った。 「違ぇ」 ゾロがサンジの頬をべろりと舐める。 「テメェがでかくなったんだ」 「……え?」 言われて、ぐるりとサンジは辺りを見回した。ゾロと仲良く寝転がってるここは、ナミさん家のダイニングのソファだった。目の前には見慣れた白いクロスの掛かった丸テーブル、奥にはいつも駆け上ってはゾロを見下ろしていたタンス。 そういえば皆、いつも見ているよりも随分小さく全体が見渡せるような。 サンジはふとタンスの脇の壁下に開いている小さな穴に目をやった。……自分の巣穴だ。 がばっと身を起こした。すると今度は腰の奥の方にズキンと痛みが走って、バランスを崩したサンジはソファから転がり落ちた。 「…!?…!?」 訳がわからない。目の端にうっすらと涙を浮かべながら、サンジはほぼ匍匐前進の勢いでよたよたと巣穴に近づいた。 そして震える手をその穴に……突っ込んだらかぽっと嵌まった。 「……ッ!!」 手首の先まで入って止まったその穴は、今朝まで確かにサンジの体1つを通していたのに。 ショックで打ち震えるサンジの首後ろを、何かがはぐっと咥えた。 「まだろくに動けねぇんだから、大人しくしていろ」 ゾロだった。首根っこを噛まれてぶらぶらした格好で、サンジは再びソファまで持ち帰りされた。 まだ呆然となされるがままになっているサンジを口から離すと、ゾロは咥えていた部分の毛並みを舐めて整える。 こういう今まででは絶対に想像もつかないようなゾロの行為も、現実として飲み込めない事態の一環である。 「あれ、そういや呪いの……指輪」 サンジは首に手をやった。あれだけ締め付けていた金属は、もうそこにはない。 「ぶった切った」 「……ハァ?」 「正確には、石を砕いた。そしたらなんだかテメェがでっかくなった」 「……ハァッ!?」 大雑把なゾロの言い分に、サンジはぽかんと口を開けた。 そんなサンジの頬をゾロがまたべろっと舐める。 「テメェそれヤメロ……」 だからなんだこの恋人みたいな雰囲気は。照れくさくてしょうがない。 サンジがぐいっと顔を押しのけると、ゾロはチッと拗ねたようにゴロリと寝転がった。 (願いを叶える魔法の指輪……) 「……え、まさかそういうオチ?」 叶えてくれたというのだろうか、サンジの願いを。 (でもなんで俺がでっかくなってんだ) 「あれ……そういや、ゾロ、俺のこと食ったんじゃなかったっけ」 「あん?」 ありゃ夢だったのかな、なんていぶかしみながらゾロを見ると、ゾロはひょいと方眉を吊り上げておもむろにサンジの右足を掴んだ。 そしてかぱっと股を開かせると、そこをべろりと舐めた。 「喰ったじゃねぇか、ちゃんと。覚えてねぇのか」 ニヤリと悪い顔つきで笑う。覚えのある感触に、サンジの顔に一気に血が上った。 「く、食ったってそういう……!」 「おう、また食わせろよ」 「……ッギャ―――!」 大きくなってから初めて繰り出したサンジの渾身の蹴りは、ゾロの体を隣のキッチンまで吹っ飛ばした。遠くで何かが割れる音と「てんめぇ、このクソネズミ!」なんて怒声が聞こえるが知ったことじゃない。 サンジは熱い顔をぱたぱた手で仰ぎつつ、どきどきする体をソファに押し付けた。 借金のカタにせしめた大事な指輪は粉々、キッチンの食器棚にはヒビが入り、そしてダイニングのソファにはネコと見紛うばかりの巨大な金色のネズミ。 諸々のことに帰ってきたナミさんの鉄拳が2人の頭に落とされるのももう間もなくのことなのだが。 (明日体調が戻ったらアイツをもう一度思い切り蹴飛ばして……そんであのふかふかな毛並みに埋もれて一緒に昼寝でもしてみっかな) サンジは幸せな予感にうっとりと口端をほころばせて、しばし新しい日々に思いを馳せたのだった。 |