僕の中の宝石 1
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 サンジの朝はまずキッチンで顔を洗い、その正面にかけてある大きな割れた鏡の欠片にその身を映して金色の髪を整えることから始まる。青い瞳にくるりと丸まった眉。鏡の中に居る自分に向かって不敵に微笑んでみる。今日も完璧だ。
 それから倉庫に置いてあるブロックチーズから一欠けら削り取り、フライパンで熱してパンくずとミルクと、卵が手に入った時はそれも絡めて熱々でトロリとしたオムレツを作る。
 それを食べてぷかりと一服。天井付近から差し込む光がまぶしい。今日も良い天気だ。
 サンジはよし、と気合を入れると玄関に向かった。扉を開くとちょっと暗い通路があり、その先にサンジが一人やっと通れるくらいの小さな穴が開いている。そこからそっと様子を伺うと、天から大きな声が響いてきた。
「ちょっとゾロ聞いてるの!」
 テーブル脚の向こうに赤いヒールを打ち鳴らすすらりとした長い足。この家の主、ナミさんだ。
 サンジはそばの棚に自慢の脚力を駆使してトトッと駆け上がり、その上から部屋全体を見渡した。
 サンジはこの家の壁の隙間に巣穴を構えるネズミである。
 ダイニングルームであるこの部屋には、白い丸テーブルを中心に豪奢な紅や金の布を織り込んだソファ、テレビ、棚などが並んでいる。テーブルの脇でオレンジ色の髪を苛々と掻き揚げているのがナミさん、そしてソファでふてぶてしく寝転がっている緑色の毛並みをした生き物がゾロ。 この家の番犬ならぬ番猫。ていうか駄猫だ。
「いーい?この魔法の指輪、ちゃんと見張ってるのよ?」
 ナミさんの言葉にゾロは大きくあくびをすると、万年愛用の緑色の腹巻に手を突っ込んでボリボリ掻いた。なんだかピンとノミでも出てきそうだ。
「なんだよ、そんな大事なモンならいつものように金庫に入れておけばいいじゃねぇか」
「瘴気が抜けるまでは入れられないのよ」
 ナミさんは綺麗に手入れのされた指でトントンとテーブルを叩いた。白いクロスの掛かった丸テーブルの上で、ナミさんの指に呼応するようにぽうっと円陣が瞬いた。
 おッ?とサンジは目を開いた。その円陣の中央には白い箱があり、中にはキラリと大きな青い輝き。なるほどあれが件の指輪らしい。
「まったく願いの叶う魔法の指輪だなんていうから期待したのに…厄介なものつかまされたわ」
「また巻き上げたのか」
「借金の利息分として貰ったのよ!人聞きの悪い!」
「同じじゃねぇか」
 ちなみにナミさんは魔女である。悪口ではなくて実際の職業的に魔法使い、というやつだ。
だが実力に見合うだけの金をたんまりと頂くことでも有名で、そういう意味でも魔女と呼ばれているのは確かだ。
「じゃあ頼んだわよ」
 ナミさんはゾロに向かって言い捨てると、足音も荒く部屋を出て行った。遠くで玄関の閉まる音がする。
 怒ってるナミさんもステキだなぁ、とほんわりしながらサンジはゆらゆらと長いしっぽを振ってその姿を見送った。
(……さて)
 今日は何をしてやろうか。
 サンジが見下ろす中ゾロは大きくのびして、ごろりと再びソファに転がっている。見張っていろと言われたのに、このままじゃあと数秒で夢の世界に旅立つに違いない。
 サンジはじっとゾロを眺めた。朝の光に緑色の毛並みがつやつやと輝いている。
 大きくて逞しい、それでいてしなやかな野生の体だ。
 なんだかどえらい敵と勝負したとかで、胸を袈裟懸けに切り裂く大怪我をしたまま庭に倒れていたのを、いつだったかナミさんが拾ってきた。一宿一飯の恩というやつだろうか、その傷がすっかり癒えた今でもゾロはこの家に居着いている。
(……や、どっちかっつーとありゃ恩とかじゃなくてただのヒモだな)
 でもたまにナミさんが外の仕事に連れて行くので、それなりに役には立っているらしいことも、寝ているようで実は殺気を感じればすぐに飛び起きることも知っている。
 大口を開けてぽかぽかと朝の日差しを受けながら眠りこけているゾロを、サンジは柔らかい眼差しで眺めた。
(あー…あの腹巻の上とか、あったかそうだな……)
 できるならあのふかふかの毛並みに埋もれて、自分も一緒に昼寝とかしてみたい。
 でもそれは叶わない夢だ。
 だから代わりに、その腹巻にちょこんと乗っかって、のん気に寝腐ってる顔にふーっと煙草の煙を吹きかけてみたり、金のピアスをわざと引っ張り上げてみたりする。
 そうするとゾロは途端にくわっとその鳶色の瞳にサンジを映して『こんのアホネズミ!』とか叫んでサンジを追いかけ始めるのだ。
 しかしサンジはそこらのネズミとは違う。逃げる一方じゃなく自慢の脚技でゾロの爪を弾き飛ばし、すばやさで翻弄し、負けずに『体がなまってんじゃねぇのかクソマリモ!』とか言ってやる。
 その攻防はたいていナミさんが帰ってくるまで続けられ、最後にサンジがゾロの手の届かない自分の巣穴に引っ込んでしまうことで終わりとなる。
 サンジは良く晴れた野っ原みたいなゾロの髪をぼんやり眺めながら、煙草を吹かした。
 なんだか今日はこのままマリモ観察日記でもつけてようか、なんて思った時だった。
 視界の端っこに、チカリと光が瞬いた。
 指輪。テーブルの上のそれが、自らの存在を主張するように光っている。
 ニヤン、とサンジの口端が持ち上がった。
 気配を消してそっとテーブルに近づく。ゾロは相変わらずぐーぐー寝こけている。何かあればすぐ飛び起きるゾロだが、要は不穏な気配を感じさせなければその目はいくらでもかいくぐれるのだ。
 テーブルに這い上がって、そっと足をのばした。円陣に触れる、が特に反応はない。サンジは安心してゆっくりと指輪に近づいた。
 きらきらと輝く青い石。サンジの頭よりも少し大きなその宝石は、深い海のような色をたたえていた。
 覗き込んでみるがその色は奥に行くほど折り重なって深みを増し、きらきらといくつもの光が交差してとりとめもない。本当に深海を覗いているかのようだ。細かくカットされた宝石の断面に、サンジの顔がいくつも映りこんで輝いている。
 サンジはしばらく珍しいその石をしげしげと眺め回したのち、両手を台座にかけて力を入れるとケースから引き抜いてみた。
 予想外に指輪は収まっていた箱からあっさりと抜けた。石はずしりと重いが、抱えて動き回れない程ではない。サンジは両手で金色の丸い輪を頭上に持ち上げてみた。この大きさならサンジの頭などすっぽり入ってしまうだろう。両手に抱えるよりも背負ってしまった方がいいかもしれない。
 ちなみにサンジの本日の計画はこうである。
 ナミさんの大事にしている指輪をどこかに隠してしまう→見張りもろくにできずにこっぴどく叱られるゾロ→無用心にも落ちていましたよナミさんと恭しく差し出すプリンスな俺→ありがとう拾っておいてくれたのねサンジくん!と感動のナミさん
 そうすれば明日はゾロの方が、サンジを見るなり目の色変えて追いかけてくるだろう。それで吹っかける喧嘩のネタを考える手間が1つ省けた。
 
 実のところサンジがちょっかいをかけないとゾロの方から手を出してくることはないのだ。
 体格の違いか種族の違いか、自分より小物には目をかけないということなのか。とにかくサンジにはそれが堪らなく嫌だった。その万年眠ってる目ん玉にもっとサンジを映せ、脳味噌に存在を入れろ、もっともっと、もっと自分に対して本気になれ、と思う。
 サンジがゾロに、そうであるように。
 小さいネズミか、なんて軽く見過ごすような存在だなんて思わせやしない。だからサンジは毎日ゾロをあの手この手で煽っては自分を追いかけさせる。
 もしもゾロがサンジに本気になってくれたら。
(……あの牙に、噛み砕かれるのも気持ちいいかも知れねぇな)
 きれいなきれいな、大きな獣だ。初めてその姿を見たときから、触ったら途端にガブリとやられてしまうのを知っていて、サンジはそれに触りたくて仕方がない。
 そんなゾロに、血の一滴、骨の一欠まで粉々にすり潰して食べられたらどんなにいいだろう。
 うっとりと微笑むサンジの頭上で、深い青がきらりと光った。
 不意にサンジの頭上に影が差した。
「よう、随分面白いことしてくれてるじゃねーかクソネズミ」
「ッ、ゾロ」
 びっくりして振り向いた拍子に、サンジは指輪を取り落とした。それはそのままサンジの頭にすっぽりと入ってしまう。
 サンジはその場から一瞬で飛びのいて間合いを取ると、慌てて指輪の石の部分をくるりと背に回した。そしていつものように小馬鹿にしたような表情をつくる。
「よう、お目覚めかいこねこちゃん」
 寝ているかと思ってすっかり油断をしていた。サンジは自分を見下ろすゾロに向かって足をとんとんと踏み鳴らして挑発的に笑う。
 バキリと指を鳴らしてゾロが額に青筋を立てた。
「青い光だとかアホな金髪だとかがちかちかうるさくてな、寝てられねーんだよ」
 気配を消していればいいと思ったが、どうやら持ち上げた際指輪に反射した光がゾロの目に当たってしまったらしい。サンジはチッと舌打ちした。予定とは違う展開になったが、これでもいいか。
「へッ、てめぇが涎たらしてる間に頂いたぜこの指輪。この青い色、俺にぴったりじゃね?」
「……返せ」
「腕ずくで取り返してみな!」
 その言葉を合図にゾロの手が振り上げられる。その前にサンジはテーブルから飛び降りた。
 やわらかい身のこなしで地に足をつけたサンジの後方で、同じようにゾロが着地する。両者ニヤリと笑いあった。
 そしてバトルの始まりである。
 
 
 ゾロが繰り出す攻撃を右に左に避けて、合間に上空からキックを放つ。たかがネズミと言うなかれ、サンジの蹴りを受けてサンジの10倍以上の体積があるゾロの体躯が吹っ飛ぶこともしばしばだ。
 最初の乱闘の際散々大暴れした結果家具に傷をつけたゾロは帰ってきたナミさんにしこたま怒られて、以来無闇に攻撃を仕掛けてこなくなった。サンジに攻撃を避けられて代わりにその先にあった花瓶を倒したり、尻尾を振り回してガラスの香水瓶を割ってしまったりと、そういうことを避するように頭を回しているらしい。
 ここだという決定的な瞬間が来るのを、サンジを追いかけながら狙っているのである。大きな動きの取れないゾロの事情をよくわかっていて、サンジはわざと高級な家具によじ登って挑発してみせたりゾロが着地に困るような場所を選んで駆け回って見せたりする。
 今日も同じようなペースでゾロを翻弄して楽しんでいたサンジは、しかし動き回っているうちに次第に息苦しさが増してきたことに気が付いた。ゾロは勿論サンジも並大抵の体力じゃないので、ちょっとやそっと駆け回ったくらいで息があがるなんてことはあり得ない。
(……ん?)
 ゾロの攻撃をかわしながら眉をひそめる。
 サンジの頭ほどもある石の重さはそれほど気にはならないから、動きに負荷がかかっているわけではない。サンジは走りながら首に手をやった。そして愕然とした。
 首に引っ掛けた指輪の輪が、少しずつ狭まってきているのだ。先ほどサンジの頭をすっぽりと通り抜けた輪が、今では顎よりも小さい位置にまで縮んできている。頭の後ろに手をやるとすぐ宝石の台座にぶつかる。サンジが大きな動きをする度にその輪が喉に当たるため、さっきからどうにも息苦しさを感じていたのだ。
『瘴気が抜けてない…魔法の指輪』
 不意にナミさんの言葉が思い出された。
(瘴気…呪いの指輪ってやつか?)
 サンジは焦った。一旦巣に戻ろうかとの考えがよぎったが、すぐに首を振った。この大きな石があの狭い板壁を通り抜けられるかわからない。もし引っかかってしまったら、そこで退路はなくなる。
 動揺した隙をついて、ゾロの両手が左右から振り下ろされた。慌てて飛びのいたサンジはちらちらと翻弄する動きを止めてだっと床を駆けた。
 じわじわとなんだか嫌な汗が背中を伝い始める。
(呪いの指輪だったりした場合……これは、どうなるんだ)
 ドキドキと心臓の音が大きくなって、嫌な予想に呼吸が乱れてきた。気を抜いた途端ゾロの爪先が尻尾の先をかすって、サンジは小さく舌打ちした。
 かといってこのまま捕まるわけにはいかない。
 キッチンのテーブルと椅子がジグザグに交差する隙間を走り回るうちに、首にかかった輪はどんどん小さくなってくる。とうとう息が 苦しくなってきた。これではもう頭から抜くことも出来ない。
(そうか、さっきの魔方陣……!)
 ナミさんがわざわざあそこに置いていたものだ。元の場所に戻せばなんとか指輪も元に戻るのではないだろうか。
 サンジはその考えにちょっと元気を取り戻すと、即座に元来たダイニングを目指した。
「……?」
 突然攻撃の手を止めて逃げ回り出したサンジに、ゾロは不審げに眉をしかめた。しかしすぐさまサンジがキッチンを抜けてダイニングに入り、あっという間にテーブルに飛び乗った姿を見て慌てて後を追った。




*2へ*



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