あれから何度、ゾロに抱かれただろう。 激しい責めなどではなく、優しく柔らかく、まるで睦言めいた唇を降らせてゾロはサンジを抱いた。 その方がサンジが容易く涙を零すとわかったからだろう。 酷い男だ。 反吐がでる。 元々技巧などないに等しかったが、回を重ねるごとに優しくなる腕も、そう感じていく自分の体も。 頬を伝うこの涙は決して、快感のためじゃない。悔しさだ。 まだ痛めつけられていた方が、どんなにかよかっただろう。 悔しい。 そして憎い。 こんな酷い手段を取るゾロが。 ――そして今日もまたその手を待っている、どうしようもない自分の心が。 なのに涙は都度色鮮やかに、底辺に根付いた心を映しては輝き落ちる。 頭の片隅ではわかっている。 お前は馬鹿な勘違いをしているのだと。 どこか遠くで囁く声。けれどそれには聞こえないふりで。 わかっている。 甘い夢程、呆気なく終わりが来るものだと。 ほら、例えばこんな風に。 「そういえば、ここに来るのは明日で最後だ」 無表情なゾロの言葉に、サンジの瞳の奥で、何かが乾いた音を立てた。 砂楼の王国 最終話 いつもと同じように体を重ね、事後の気だるい空気の中。 素肌の上に降り注いだゾロの言葉。 「え……」 言葉を失ったサンジを前に、何の前置きも表情もなくさらりと告げて、ゾロは衣服を整えると朝来た時と同じく、かったるそうに立ち上がった。 「何、で」 乾いた唇に、言葉が引っかかる。 ゾロは小さく欠伸をすると、周りに散らばったサンジの涙を拾い集め、シャラリと片手の中で軽く握った。 「探してる男の情報が掴めたからな」 もうこの城主にも用はない。 そう言って乱れた服を軽く直すと、ゾロは立ち上がった。 多少の後始末はしてくれるが、サンジは元々布一枚を被っただけのような裸に近い格好なので、いつもそのまま放って置かれる事の方が多い。 この屋敷の上階に与えられた寝床へと帰るのだろう、牢の扉を出ていくゾロの背中。 その姿をぼんやりと見送ってから、どれだけ経っただろうか。 ガシャンと牢番が鍵を掛ける音とともに、サンジは一人きりの牢の中でゆるゆると固まっていた息を逃がした。 さり、素足に触れた砂が擦れる。 「……はっ」 ゴロリと横になり、口を歪めれば、乾いた笑いが飛び出した。 ほらみろ、だから言っただろう。 自分の心に対して嘲笑う。 最近ではあまり気にならなくさえなっていた、石の床が肩に当たって痛い。 見開いた目に映る荒削りの岩の壁。 最初から砂の牢獄なのだ、ここは。 それに気づいた時には、柔らかな砂に半身は埋まっていて、もう手遅れだ。 「……っ」 笑い声は言葉にならず、代わりに目元から流れた涙が、静かに砂に飲まれて消えた。 * * * 「…なあ」 翌朝、ここ最近と全く同じように何気ない顔で朝食を片手に牢に入ってきた男に視線を投げて、サンジは壁に凭れたまま小さく息を吐いた。 ゾロはこちらに関係なく床に皿を広げると、勝手に食事を始める。 野菜で巻いた肉のような物を顔の前に突き出されるが、小さく首を振って拒めばゾロはそれを自分の口に放り込んだ。 「…お前の探す男ってのは、仇か何かか」 「…聞いてどうする」 「明日からまた暇な生活に戻るんだ。少しくらいお前の事聞かせろよ」 しばらくまた娯楽のない監禁生活になるんだから。そう笑えば、ゾロはちらりと目線だけを返しながらぺろりと指先を舐めた。 「俺には、感情ってもんがないらしい」 唐突に切り出された言葉に、サンジは小さく目を瞬いた。 「呪いだそうだ」 そう言ったのは誰だったかな。呟いてゾロが足元に投げた視線の先に、横たわるのは白い一振りの刀。 どんな時でもゾロが傍に置いて離さないそれは、ゾロの唯一の武器だ。 柄や鞘は長年の道連れを感じさせる程使い込まれているのに、何故かその白は凛と静謐だ。 不思議な力が篭っているようにも見えるが、それはどちらかといえば愛着に近いもので、呪が掛かっているような禍々しさとは対極にあるもののように思う。 「いつだったか、もう忘れちまったが、死んだ昔馴染みの形見だ」 強さを求め、高めあった純粋な幼い時代。 誓い合った約束。 ゾロの言葉は淡々としていたが、思いがけない男の過去にサンジはじっと耳を傾けた。 「この刀で何かを斬る度に、どんどん何も感じなくなっていった」 ゾロの手が刀を取る。 けれどその手つは丁寧で、とても柔らかいものにサンジには見える。 「最初は色々重く感じたものも、斬るたびに軽くなった」 強い奴を斬れと言っているんだと、俺は思う。 その為に邪魔な感情を消してくれているのだと。 「…、違う」 サンジは小さく首を振った。 「俺がずっと探しているのは、この世界最強と言われる剣士だ。それでようやく、この刀と…友との誓いを果たせる」 「違う…、そんなの…その子は望んじゃいねぇよ」 サンジはたまらずそれだけを言葉にすると、壁に背を預けたまま俯いた。 こちらを見つめるゾロの瞳は揺ぎなく、深く、そして真っ直ぐに凪いでいる。 (…感情がない、だなんて) ゾロのそれは、そんな言葉で片付けられるものじゃない。 純粋であるほど、全てを捨てないと耐えられなれない道程だったのだ、きっと。 「…おい」 ゾロが床に刀を置くと、サンジの前に来た。 「こっち向け」 「……」 ぎゅ、と膝を立てて顔を隠そうとするが、顎を無理やり取られ、サンジは上を向かされた。 目の前に、不思議そうなゾロの顔がある。 「なぁ、なんでお前、泣いてんだ」 「っ…」 「あんなに泣くの嫌がってたじゃねぇか」 「うるせぇ…」 頬を滑り落ちた何の色もない透明な涙は、そのまま床に落ちると、カシャンと小さな音を立てて割れ、灰色の欠片になった。 「いつもの石にならねぇんだな…なんでだ」 涙の破片を指で掬い取ったゾロが、指先で散り零れる灰を確かめる。 サンジは自嘲するかのように唇を歪めると、はっと息を吐いた。 「関係、ないだろう。お前はもう出ていくんだ」 不意にゾロが、サンジの顔をすくいあげた。 「……っな」 目元に感じる濡れた温かさ。 舐められたとわかった途端、サンジは反射的にゾロを蹴り飛ばしていた。 「何してんだ!」 「…なんとなく」 サンジの蹴りなどまるで効いてもいないゾロが、自分自身でもわかっていないように首を捻った。 「……っ」 一瞬だけ緋色になった涙がサンジの頬を滑り落ち、やはり割れて床の砂と消える。 サンジは諦めたように小さく目を閉じると、深く息を吐いて心を決めた。 「なぁ……ゾロ。お前、今日ここ出る前に、ひとつ頼まれちゃくれないか」 「なんだ」 「俺のここ、斬ってくれよ」 白い首を見せ付けるように傾けて、サンジはふわりと笑った。 「綺麗に切り離してくれ」 心と体を、切り離して。 「お前……」 「だってお前、もうここのクソ城主と契約切れるんだろう。俺もそろそろこんな所、抜け出したくて。あー大丈夫だって、俺は魔人、死にはしないから」 流石に驚いたようなゾロの前で、サンジは殊更明るく笑った。 (なーんて、半分嘘だけどな…) 内心で小さく笑う。 (まぁ、もしかしたら死ぬかもしれないな) 魔人は多少の傷やダメージならばたちどころに治ってしまう。 けれど自由を奪うこの両手の鎖を抜く為には、この腕を切らないといけない。流石にそこまでのダメージは回復できない。まして魔力を封じられた今は、ほとんどただの人間と変わらないのだ。 しかし、魔人の力の源は、額の奥にあるという。それは伝説のように、語り継がれている噂に過ぎないけれど。 力を封じられた体を切り捨て唯一つの魂となった時、何かを媒体にして深い眠りにつけば、魔人は長い年月を生きながらえることも可能だと。 それが本当に成功するのか、勿論サンジにもわからない。 でも腕を切り落とすことを考えるよりは、はるかに良い賭けだった。 ……そう、思えるようになったのは。思い出させてくれたのは。 「何の為に、俺はそれを切らなきゃならないんだ。意味もない物を斬るつもりは無い」 「……」 「なんでお前は、それを俺に頼む」 じっと、真っ直ぐに何かを見透かすような目でゾロがサンジを見据えた。 サンジもその目をゆっくりと見返すと、静かに笑った。 「なんで、だろうなぁ…まだ俺にも、はっきり答えが出てないや」 「ゾロ、お前にはもしかしたら酷な事を頼んでるのかもしれないし、全然気にも留めないかもしれない」 「でもいつかその剣が…もっと重いものだったって事も、思い出せたら。何か変わるかもしれないぜ」 ゾロは僅かに考えるように目線を流すと、やがてゆっくりと刀を抜いた。 鋭い白刃の気配が、スッと場の空気を静かに分けていく。 「ごめんな。…ありがとう」 それはゾロに向けたというよりも、綺麗な刀に向かって言ったのかもしれない。 サンジは背を正すと、静かに目を閉じた。 * * * 空が青い。 どこまでも青く、そしてその下に広がるのは、果てしない砂の海。 風に流れる砂の上を、点々と踏み越えて歩く小さな足跡。 一定の距離を取って歩くその人影は、二つ。 「お前な、鉄とかも切れるんだったら最初からそう言えよ!」 「聞かなかったのはお前だ」 ザクザクと苛立ち紛れに砂を蹴飛ばして歩くサンジの後ろを、ゾロが着いてくる。 マントの下、自由になった白い両腕にはもう、何の縛めもない。 久しぶりの砂の感触。流れる風。ずっと固められていた体勢のせいで体はあちこち痛いが、それでもサンジの胸は思いがけない喜びでいっぱいだった。 今すぐ全身で砂の上を転がり、久しぶりに体に満ちた魔力で空を駆け回ったりしたかった。けれどもそれをしないのは、何故か黙々とサンジの後をゾロがついてくるからだ。 そして本来なら魔力でひとっ飛びに移動できるところを、サンジもわざわざ足で歩いているのは。 (とりあえず一番近い街がこっちの方向にしかないし、久々の砂の感触も楽しいし、仕方ないよな。うん) 曖昧に感情を納得させたところで、なぁ、と後ろから声がかかった、 「お前、どこに行くんだ」 その言葉に小さく目を瞬かせて、サンジは思わず緩みそうになる唇を隠すように前を向いたままで答える。 「そうだなぁ、どこに行こうかなぁ」 「料理人になるのか」 「うん、そうだなー」 「俺とは来ないのか」 「そうだな〜」 しばしの沈黙。 乾いた風が、大地に立つ2人の髪をさらっていく。 「なぁ、そういえば」 再び口を開いたのはゾロの方だった。 「お前の名前、なんていうんだ」 目を一つ瞬いて。 サンジは歩みを止めるとゾロを振り返って。 そして大きく笑った。 「俺が立派な料理人になったのを見届けた時、教えてやるよ」 |