着火マン |
トン、と煙草の箱を叩いて、少し飛び出した1本を太い指が掴みとる。 ごつごつと骨ばっていて日に焼けた、力強い指だ。 四角くて平たい爪に、剣だこのいくつも出来た硬い皮膚。 戦うために、そして何かを掴み取るために鍛えられた大きな男の手。 同い年であっても、やはり料理をする自分とは造作の違う、ゾロの指。 それが白い紙煙草を挟んで、すい、と上に持ち上がった。 上空に広がるのは雲の流れる水色の空。 それを覆うようにざわめく緑の葉。 穏やかに揺れるメリー号のみかん畑で、サンジは正座した膝の上でぎゅうと拳を握り締めた。 ドキドキと自分の鼓動が馬鹿みたいに上がっている。 それがバレないようにじっと息を殺し気配を抑えながら、真正面にあぐらをかいているゾロを注視する。 大きな手の中でいつもより細く見える煙草。 その吸い口を、普段は剣を咥える獰猛な牙を内に隠した薄い唇が軽く挟んだ。 広い背が風を遮るように向きを変え、覆った手の中で擦られるマッチ。 シュボッと燃え立った小さな火がゾロの分厚い手にそっと守られるように、そのまま口元に近づけられる。 その瞬間、僅かだがすっと閉じられる目。 祈りなどしない男が、まるで何かを想うように睫毛を伏せる。 鼻梁のすっきり通った輪郭が、男らしいと改めて気づいた。同い年の男として、どうにも認めるのは悔しいのだが。 ジジ、とその紅く燃える炎の音すら聞こえそうなその一瞬。 自分の心臓だけがうるさいくらい耳の奥で跳ねる中、まるでゾロに咥えられた煙草が自分の口内にあるかのように、じわりと湧いてきた唾液をサンジは小さく飲み込んだ。 ふぅっと宙にたなびく紫煙。 軽く手首を振ってマッチの火を消すと、ゾロは咥えていた煙草を手に持ち替えた。そして日光によって茶色に透けるその瞳を、すっとサンジに向ける。 その目に促されるまま、サンジはゆっくり口を開けた。 少し乾いた唇が小さく震える。 床に正座をして、両手は膝の上。まるで餌を貰う雛のように無防備に口を開ける様はなんだかとても恥かしいしいたたまれないが、それでも勝負を投げるわけにはいかない。 (…そうだこれは勝負だ、男の戦いだ。) サンジは拳を固く握り直すと、腹の底に気合を入れてゾロを見つめ返した。 しかし吹いて散る木の葉のように、そわそわと気持ちはすぐに乱れて飛んでいく。 薄く覗いた舌先が震えていないだろうか。 頬は赤らんでいないだろうか。 身動き一つしないままなのに、サンジの心臓だけがさっきから走り回って止まらない。 (……ありえねぇ。) 目の前にどっかりと腰を据えているのは麗しのレディでもなんでもない、万年腹巻愛用のごつくてムサい男だ。しかも緑頭。 手首から真っ直ぐに伸びる腕は筋肉が鎧みたいにまとわりついて、やわらかな女の子とは対極に位置するような体つき。 それなのに。 心臓を高鳴らせ、心持ち頬を染めて見守る自分。 (……ありえねぇ……!) サムい、寒すぎる。 できるなら今すぐに頭を掻き毟って思い切り甲板を駆け回ってしまい衝動にかられて、サンジは一人身悶えた。 ルフィは船首の上で昼寝中だし、ナミさんとロビンちゃんはさっきカモメ便が届けにきた本を手に部屋で休憩中。 チョッパーとウソップはさっき両手いっぱいの道具を抱えて後方甲板に消えていった。 だから今この状況は誰も見ていないはずだ。 だから大丈夫、大丈夫……。 さわ、とみかんの葉が風に揺れる。 (……いや大丈夫っていうか別に見られてやましいことなんて何もないけど!…っていうか大体なんでマリモ相手にこんな緊張してるんだ。しかも2人きりでこんな、こんな…) 目線を空中に投げてぐるぐると頭の中がいっぱいになっているサンジにおかまいなしに、ゾロは正面に座るサンジの方にちょいと身を伸ばすと、ぽかりと開けられていた口に煙草を差し込んだ。 ぱくり、と。 唇に触れたその感触に、壊れた機械のように条件反射で口を閉じる。 (…そういやこれって間接ちゅーになるんじゃねぇ?) しかし微動だにしないサンジを不審に思うこともなく、ゾロは口元で煙をたなびかせる煙草を満足げに見るとうむ、と小さく頷いた。 その顔はまるで一仕事終えたかのようにすがすがしい。 ゾロはのっそり立ち上がると、サンジ愛用の煙草とマッチをもそもそと緑色の腹巻にしまった。 (いやいや待て待て) 汗が染み込んでそうなその中じゃタバコ湿気っちまうだろうが。 ていうかそこはやっぱりポケット代わりなのかよ、他にも変なモン溜め込んでんじゃねぇだろうな。 なんて、ツッコミ所は多々ある行動にも何も言えず、サンジはただ固まってゾロを見るしかない。 「また呼べよ」 ゾロはそう捨て置いて、くるりと背を向けると格納庫の中へ消えて行く。 後にはほわんと耳を朱に染めたサンジが一人。 口元から長くなった灰がホロリと崩れ、風に流れた。 今日、ゾロは誕生日を迎えた。 丁度島から島への中間地点のことでまだ航海は長い為、食料のことを考えるとそれほど派手な宴会はのぞめなかったのだが、今回は朝食の席でルフィの 「よしゾロ、今回おめぇのしてもらいたい事を言え!プレゼントしてやる!!」 という頬に物をいっぱいに詰め込んだままの無闇に力強い一言によって、お祝いの方向性が決まった。 プレゼントをやる、という行動をルフィが率先して言うとは思わずにしばしぽかんとしていたクルーだったが、 「肉食いてぇんだろ!?」 「そりゃてめぇのしたいことだろうがッ」 目を輝かせて言ったルフィにすぐさまウソップの突っ込みが入った。 「でもそれ面白そうだなッ!なんでも言ってくれよゾロ」 そう期待に満ちた目で見上げたのはチョッパー。 「あー……」 祝われる当の本人は突然のことにしばらく唸って頭を掻いていたが、やおらくるっとナミの方を向くと 「借金帳消しにしろ」 「絶対に嫌」 ズバッと言ってズバッと速攻切り捨てられた。 「でもそうね…利息の1割、チャラにしてあげるわ。これで誕生日プレゼント終了ねvおめでとうゾロ」 「なんだそりゃッ」 にっこり笑って言うナミに、ゾロは渋い顔をした。 もとより大半が身に覚えのない借金と利息である。 ゾロはそれからしばらく考えて(というのもわくわくと言葉を待っているチョッパーが視界に映っていたからだろう)チョッパーに『筋肉疲労に効く薬』、ついでにルフィには『今日は昼寝の邪魔すんな』と付け加えた。 サンジは飲み物の給仕をしながらそれを聞いていたが、ふと自分を見ているゾロの視線に気づいて顔を上げた。 「なんだよ、何か御所望かクソ剣士」 大方美味い酒寄越せとかそんなことだろうと、シンクにもたれて見下ろしてやれば。 「煙草の火、つけさせろ」 「………は?」 思いも寄らぬ言葉に、サンジは眉を寄せた。 「てめぇの煙草、今日一日、俺に火をつけさせろ」 真剣な顔でそう言ったゾロに、クルー全員が不思議そうな目を向ける。 「サンジくんのタバコ?吸いたいのアンタ」 「そういうわけじゃねぇ」 むっつり腕を組むゾロに、サンジは気づいたようにポンと手を打った。 「あー…煙草は20歳になってからだからな。そうかやっとテメェもオトナの仲間入りか」 「そういうテメェはいくつだってんだこのグル眉毛」 「んだとヤんのかこの万年マリモ頭!」 …とにかくそれが、始まりだった。 最初ゾロはマッチをするのでさえ上手くいかなかった。 握力が強すぎて、擦る段階でマッチの柄をボキっと折ってしまうのだ。 「ッだー!そうじゃねぇよ無駄に筋肉つけやがってクソが。この赤い先端部分だけ、表面だけをすばやく擦るんだよ。こう。そんで煙草は口に咥えて…そうそう」 一人旅が長いと聞いていたのだが、マッチも使えずに一体どんな暖の取り方をしていたのか。まさかあの『焼き鬼切り』とかいう技はその為に開発したんじゃなかろうかと思いつつ、サンジはゾロの横に座ってレクチャーする。 甲板に座り込んで開かれている即席『サンジ先生の煙草教室』には最初のうち暇なルフィも加わっていたのだが、興味がなかったのかはたまた1本与えた煙草を一口食べて不味いと思ったからか、すぐにどこかへ行ってしまった。 チョッパーは医学書を抱えて通りすぎがてら「吸いすぎないようにな」と真面目な顔でゾロに忠告し、ウソップはすぐ喧嘩にもつれると踏んだのか近寄ってこない。 女性陣はしばらくは興味深そうに見ていたが、今はデッキチェアで別の話に花を咲かせている。 結果、教室は個人指導に早変わりだ。 ゾロはサンジの言うことをまるで興味を持ったばかりの子供のように、じっと見つめてその動作を真似る。 煙草という物を吸ったことは勿論、持ったこともないと言う。 隣に並んで、サンジと同じように煙草を咥え、同じ動作でマッチを擦るその動作は酷くぎこちない。 けれど真剣なその顔がどこかガキくさくて、サンジはこっそり笑いを堪えながら身振り手振りでゾロに教えた。 「風が強いと火はすぐ消えちまうから、手で軽く守るようにして、そう、そのまま先端に持っていく」 白い筒の先端に火が付き、ゾロが吸い込むと同時に内部が赤く燃える。 その途端、 「ゲホッ!!グッ、な、なんだこりゃッ」 盛大にゾロが咳き込んた。 「ん〜マリモちゃんにオトナの味はまだ早かったでちゅかねー」 実際に火までつけなかった煙草を口の端に咥えてにんまり笑うサンジに、ゾロはじろりと視線をやると煙草を持っていない手で喉を押さえた。 「こんな不味いモン始終咥えてるテメェの方がおかしい」 そしてサンジの口から煙草を引き抜くと、代わりに火のついたゾロの煙草を差し込んだ。 「まぁ、まずまずじゃねぇの。俺の講座は以上で終了」 ぷかーと煙を吐くサンジに、ゾロはぬっと手を差し出した。 「あ?まだやんのかよ」 「いいから寄越せ」 やれやれとサンジが煙草とマッチを箱ごと放り投げてやれば、ゾロはそれをいそいそと腹巻に仕舞いこんだ。 「あ?てめ、ナニ着服してやがんだ」 「今日一日つけてやる約束だ。煙草が吸いたいときに呼べ」 「へ」 あれ、指導してた先生が生徒に煙草没収されるって、なんかおかしくね? そう気づいた時には既に、意気揚々といった感じのゾロは甲板に消えていた。 「オイ、しもべちゃん、火ィつけろ」 「誰がシモベだ」 靴音高く近づけば、ゾロは口を尖らせながらも手にしていたバーベルを置いて腹巻からタバコセットを取り出した。 箱から一本を取り出し、口に咥えて火をつける。 最初はぎこちなかったものの、回数をこなすうちに次第にその姿はサマになっていく。 煙草を咥えたその真剣な横顔はいつも以上に大人びて見えて、何故か小さく心臓が跳ねた。 (こうやって黙って立ってりゃあ……) 目線をかすかに落としたゾロの顔をほわっと眺めていたサンジは、ハッと気づいてぷるぷると首を振る。 (立ってりゃなんだって言うんだ。レディはそこに立っているだけで麗しく香る花のように世界が輝くってもんだが、腐ってもコレはマリモだ!マリモが立ってて何の得になる) 自分を叱咤していると突然、ぐいっと顎が引っ張られた。 目線を戻せば不機嫌なゾロがじっとサンジを伺っている。 「クチ開けろ」 小さく顎鬚に掛けられた親指が、むにっと下唇を開かせる。 「…ッ」 その空間を埋めるように、煙草が突っ込まれた。 口を閉じろと言うように、親指がやさしく唇の端っこを撫でていく。その動作に何故か頬に血が集まってきて、サンジは慌てて大きく息を吸い込むともわーっと煙をふかした。 「ゲホッ、てめぇ、こっち向かって吐くんじゃねぇ」 目の前が真っ白になったゾロが手で煙を払う隙に、へっと鼻で笑う振りして、サンジは慌ててその場を後にした。 耳がすごく熱くなってるのが、泣きたいほどにわかった。 晩御飯の食器を洗い終えてから一服するひと時は、サンジが息抜きできる一日の中でも貴重なリラックスタイムだ。 毎日の行動に無意識に胸元を探ったところで、サンジはそういえば一式をゾロに渡したままだったと気がついて舌打ちした。 キッチンの時計を見れば、あと2時間くらいでゾロの誕生日も終了だ。 今日はもう何度ゾロの元に足を運んだかわからない。その都度おかしな具合に緊張する自分自身に、実は結構サンジは参っていた。 はぁ、と重い溜息をついてノロノロとエプロンをはずす。 これはあれだ。 顔付き合わせれば必ず喧嘩が常であったのに、今日はゾロが自分に尽くすというありえない状態で大人しくしてるから、ついついこっちも調子が狂うのだ。 昼寝してるだろうという時間を見計らって煙草を奪うために近づいて見れば、こんな日に限ってゾロはしっかりと目を覚ます。 いっそストックを持ってきてしまおうかとも考えたが、一応誕生日プレゼントとして奴がリクエストしてきたことだし、見えない所で一服なんてまるで逃げるような真似、ゾロ相手にするのは我慢ならなかった。 しかし今こうしてゾロのことを考えているだけで、自分の心臓がおかしな具合に鳴り出す。 「あークソッ」 サンジは冷蔵庫から夜食用に作り置いてあったサンドイッチの皿を片手にとると、ついでに棚からワインを1本引き抜いて外に出た。 全部あのマリモがいけない。 マリモが煙草という小道具ひとつでかっこよくなっちまうのがいけない。 (だからカッコイイなんて思うんじゃねぇよ俺――!) もうダメダメだ。 見張り台で大あくびしていたゾロは、登ってきたサンジの顔見るなり「お、煙草か」なんて間の抜けた顔をした。 「そうだけどよ」 おら、と見張り台に上半身を乗り出したままで皿を突き出せば、ゾロはおお、と呟いてそれを受け取った。 もっと詰めろとゾロを押しやって、サンジもワインを持ったまま見張り台に入り込む。桶みたいな形の見張り台スペースは、野郎二人が納まると結構狭くて暖かくなる。 夜食にくらいつくその姿を豪快だなぁ、なんて思いながら、サンジは手に持ったワインをゆっくり転がした。 煙草で間を繋ぐこともできないので、仕方なく口を開く。 「…なぁテメェ、どうして俺の煙草に火、点けたいなんて思ったんだよ」 ゾロはサンジの手からボトルを奪うと、かわりに空になった皿をサンジの手の上においた。何かしていないと落ち着かないので、しょうがなく今度は皿の縁を立ててごりごりと転がしてみる。 「テメェはよ、常に誰かに対して気が向いてるだろ」 「あ?」 ゴリ、と皿の回転が止まる。 「対象は変われど1対1。常に意識は他人に向いてるだろ」 「…そりゃ俺はテメェと違って寝腐れ癖はねぇからな。でも俺だって一人になる瞬間はあるぜ。例えば料理してる時とか、掃除してる時だってそうだろ」 「料理や掃除なんてのも同じだ。対象となるもののことだけを考えてるじゃねぇか。俺の言ってるのは『無心』になる時がねぇってことだ」 確かに何も考えていない時間なんて、せいぜい眠ってる時くらいか。 でもそんなの誰だってそうだろう? 「で、ここんとこずっとテメェを見てて気づいた。テメェが唯一『無心』になる時がある。それが」 ボトルを床に置く鈍い音が静かに響いた。 思いのほかシンとしていたのだと気付いた空気の中で、サンジが小さく喉を鳴らした。 「煙草の火、点けてる時か……?」 ゾロは頷いた。 「煙草の先に火を点けるその瞬間、テメェはその煙草の先端だけを見つめて『無心』になる。その先端に合わせて火を近づけるのは、無意識下の行動だから何も考えちゃいねぇ」 「……だから何でそれがてめぇの、やりてぇことに結びつくんだよ」 「その無意識の時間が、欲しくなった」 「………はぁ?」 「俺が煙草の火を点けると、テメェはずっと俺に意識が向いてるだろ」 予想外の台詞に、サンジの胸の下のほうがじわりと震えた。 「一日に十数回あった、テメェが誰のことも気にしていない『空白』の時間。誰のもんでもねぇそれが、欲しかった」 少しずつ生まれた熱が、とくとくとサンジの全身を巡りはじめる。頬が、耳が熱く染まる。 気づいてしまった。 なんてことだ。ありえねぇ。 「てめ…、それがどうしてだか…そうしたいのがなんでだか、解って、るのかよ…」 「…そういや、なんでだろうな」 じっと、ゾロの目がサンジを見つめる。 わからないと言いながら、迷いのない真っ直ぐな目。 ふっと、ゾロの手がサンジに伸びた。 熱くなった耳たぶを、ぎゅっと握られる。 太くて少しガサガサした指が、サンジの耳の裏をゆっくりとさすり上げて。 ゾクリと震えた瞬間、目の前に影が落ちた。 重ねられる、ほんの少し優しい感触。 やがてゆっり離れていく口元を、サンジはただ目で追った。 「……わかってんのか?」 「……わかった気がするぜ」 ゾロはニヤリと笑った。 誕生日はもうすぐ終わる。 ゾロの手が煙草を引き抜くと、それを咥えてマッチを擦った。 シュッと赤くやわらかい炎が上がる。 その仕草を見つめるサンジに向かって、ゾロはもう一度ニヤリと不敵に笑って。 そしてゆっくり、火をつけた。 |
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