泡恋 8
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 ギイ、ギイ――
 
 暗い倉庫の中。扉の向こうには消えない雨の気配がずっと小さく扉を打っている。
 積み上げられた木樽や粉袋の間の暗闇で、サンジはじっと空を見つめていた。
 うっすらとした陰影が判別がつくだけの部屋の中、動く気配はない。
 我を忘れるように熱を貪った後、気付けばまたサンジは一人だった。ゾロがいつ倉庫を出ていったのかも覚えていない。
 
 通気孔のない倉庫の空気は湿っていて重く、床に横たえた体を閉じ込めるように纏わりつく。
 散らばった服をかき集める気力も、だるい手足を動かす力もない。
 目をつむり、サンジはゆっくりと息を吐いた。
 
 閉ざしたいのは視界ではない。
 酷く空虚で重い、胸の真中にどかりと居座るこの心だ。
 
 熱の余韻を残す体の痛みだけが、今はひどくありがたかった。
 そちらに集中すれば、じくじくと痛むこの感情を少しでも忘れられる。
 
(――これから…どうしようかな)
 ベタつく体を起こして風呂に入って、ああ服とレシピノートも探さなければ。
 全てが億劫で、どうでもよくなりそうだ。
 
 終わりの見えない航海。
 クルーの安全。
 食料の確保。
 嵐の中での目まぐるしい一日。
 ゾロとまたこうして抱き合って。
 これからずっと。――ずっと?いつも。…ゾロと?
 そうだこれから、もしかすると毎晩ずっと、何でもない顔をしてゾロに抱かれなければいけない。
 だって笑って送り出さなければ。
 ゾロが鷹の目と剣を交えるその日まで――。
 
(……疲れたな)
 色んなことに、疲れた。
 でもこんな様子を、ゾロには…いや、クルーの誰にだって見せることはできない。
 だから立ち上がらなければ。
 そして何でもないように、笑って――…。
 
 
「笑えるように、してあげましょうか?」
 
 サンジはうっすらと目を開いた。
 暗い天井。
 その前に、淡く発光しながら浮かび上がる彼女の姿がある。
 彼女は暗闇の中でも涼やかに響く声で、いつものように微笑みながらサンジの頬に手を伸ばした。
 
「笑える――…?」
 頬にひやりとした感触。
 サンジはぼんやりと彼女の整った顔を眺めた。
 
「そうよ」
 彼女の手は柔らかくサンジの頬を撫でていく。
「賭けの対象になる心を変えることは出来ないけれど、その涙を」
 白い指先が、サンジの目元をなぞった。
「預かることなら、できるのよ?」
 
 彼女の指先から零れた雫の欠片が、つうっとサンジのこめかみを流れて消えた。
 
「どうするの?」
 
 甘い声。
 重い思考を塞ぐように、サンジはそっと瞳を閉じた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「あ……ア、ッ…」
 雨の音。篭る熱気。暗い船倉。
 あれから毎晩、サンジの食料チェックの時間にひとつの日課が増えた。
 ゾロからの、夜の誘いだ。
 それを断る理由なんて、サンジにはない。
 辛いだなんて、そんなことすら考えられなくなるくらい、わざとサンジから激しくねだった。
「ッ、あぁ…――!」
 後ろから大きくグラインドされて、電気のような快感が走り抜ける。覆い被さるゾロの胸も汗で濡れていて、間近に落ちる荒い呼吸にサンジのモノも昂ぶっていく。
 気持ちいい。その快感を一つも逃さぬように、サンジは自ら大きく腰を動かしてゾロに押し付けて震えた。
 狂ったように毎晩、暗い倉庫の中で熱を放つ。 
 もしかしたらゾロも、戦いを前にして余裕がないのかもしれない。
 
 なのにゾロの熱い手の平、したたる汗、サンジの肌を探る指先が。
 例えその気持ちが自分に向かってないとしても、今こうして自分を求めている力強いその存在が、サンジの胸を締め付けるのだ。
 痛い、痛いとキリキリ締め付ける。
 欲しいと泣いているのだ。すぐそこにあるのに。こんなにも自分を繋いでいるのに。
 なのに一番欲しいものには手が届かない。
 
「――…ッ!」
 ゾロのものが深く内部をえぐって、サンジは熱い飛沫を弾けさせた。
 目の端がじわりと熱くなる。
 けれどそこから流れ落ちるものは何もない。
 
 ここが暗闇でよかったと、床に倒れながら思った。
 きっと自分は今ひどい顔をしている。
 涙が流れなくたって、胸の痛みは変わらない。
 むしろ流せない悲しみが奥底に溜まって、今にも溢れそうに逆巻いては胸を打ち続けている。
 
 
 気持ち良い開放感とともに襲い掛かってくるのは、いつも打ちのめされたような孤独の痛みだった。
 
 
 
 
 
 トントントン…
 キッチンで夕食の用意をしながら、サンジはぼうっと手元で切り刻まれていくタマネギを見ていた。
 目がじりじりと焼けるような痛みを訴える。
 なのにいつものように涙は出てくることはない。
 
(預かるって、どこに行ってるんだろうな……)
 ぼうっと考えながらタマネギを冷水に浸して、ついでに真っ赤になったであろう目を冷やしたタオルで覆った。
 休憩がてら煙草に火をつけて、少しだけシンクに凭れて天井を見上げる。
 
 航海は思うように進んでいない。
 まるで行く手を塞ぐような嵐や海獣にメリー号は未だ翻弄されていた。
 
(鷹の目か――)
 ――…タイミングが、良すぎやしないか?
 穏やかに続くと思われた途端に急変した天候も、あまりに出来すぎだ。
 
 チラリと脳裏に笑う彼女の顔が浮かんだが、サンジは小さく息を吐いた。
 ゆったりとした紫煙が天井付近を漂って消えていく。
 例えそうであったとしても、そんなものは今更だ。
 本当に意図的に操作されたのだとしても、そのお陰でゾロの夢が近づいたと言ってもいいのだから。
 
 
 
 けれど未だ島影は見えぬまま。
『あと、10』
 無情な彼女のカウントだけが、サンジの耳に残って響いた。
 
 

 
 
 *9へ*

 
 
 
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 07.08.30