泡恋 6
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 出航の前夜、船の食卓は華やかなものになった。
 しゃきっと芯の通った野菜のサラダにマリネ、まだ甘味の残るミルクをベースにしたスープ、小魚のフリッターにロブスターの蒸し焼き、血のしたたる肉はミディアムでボリュームいっぱいに。それにルフィは目を輝かせ、瑞々しいフルーツを活かしたデザートの数々には女性陣からも笑顔が零れた。
 明日からの厳しい航海に、仲間達の安全に祈りを捧げるような気持ちで、サンジは新鮮な食材をあえてふんだんに使ってクルーに振舞った。
 次に心置きなく自由に料理を作れるのは、最低でも一ヶ月後になるのだ。 
 それまでの間、厳しい状況で仲間たちには我慢を強いることにもなるかもしれない。その前に思う存分腹ごしらえをさせてあげたかった。
 
 
「ようし、行っくぞ――!」
 翌朝、地平線の遠くまで真っ青な空の下、ルフィの掛け声で小さな羊船は大きな夢めがけて勇敢に走り出した。
 
 
 
 第3のルートに乗ってしばらく、船は順調に航路を進んでいた。
 心配した天気の崩れもなく、ナミだけは何時間か置きに海図とログポースを見比べては微妙な進路の確認をしている。
 
「まだ序盤だけど…このままの調子なら大丈夫そうね」
 4日目の夜、神経をほぐす為にとサンジが入れた温かなハーブティーのカップをキッチンに返しに来たナミが、そう言って笑った。
「じゃあ、おやすみなさい。サンジ君も早めにね」
「うん、おやすみナミさん」
 小さな足音が階下に消えるのを背中で見送って、サンジはきゅ、と水道の水を止めた。
 エプロンを外して胸ポケットから煙草を取り出す。
 一本を掴み、けれど小さく息をはいてそれを再び箱に戻した。
 
 
 不意に慣れた気配がサンジの横に現れて、笑うような声が耳元に落ちた。
『告白しないの?』
 長い髪を漂わせながら空気の中からふっと姿を現した彼女は、空中でくるりと一回転するとその長い手足を緩やかに広げた。
 何も身に付けず、常に白く滑らかな肌を晒している彼女からは不思議と性的な魅力を感じない。綺麗だとは思うけれど、それはどちらかというと人形のように作られた美しさでしかない。
 クルーの誰も、この彼女の存在には気付いていないようだった。敵船が近づいただけで目を覚ますようなゾロでさえ、気配も感じていない。
 彼女が姿を現すのはこうしてサンジが一人になった時だけ。直接的な殺意がないからかもしれないが、逆にそれだけの強い力を持っているから、かもしれない。
 白い指先がするりとサンジの髪を梳く。半透明でどこか現実味のない彼女だが、サンジの髪はサラリと音を立てた。
 背筋がヒヤリと粟立つ感覚を押し殺して、サンジは黙ってシンクにもたれた。
 
「ああ…まだ、しないよ」
 ゾロとはこの所いい雰囲気になってきたものの、確証なんてまだない。
 もし賭けに負けたら――危険な海域の途中で、自分がいなくなってしまったら――仲間はどうなる。
 ギリギリの事態に陥った場合の、食料の配分は。
 
 想像すればゾッと背筋が凍って、ぎゅ、とサンジは両手を握り締めた。
 そんなことは、絶対にさせない。
(それに)
 サンジは小さく深呼吸をした。
(嘘みたいに順調な天候だ。このままなら焦ることもない―――)
 まだ時間はある。ゾロを鷹の目に引き合わせて、それからでも間に合う可能性だって充分にあるんだ。
 そう考えれば不安に急いていた心が落ち着きを取り戻してきて、サンジは肩から力を抜いた。
 
「まだ…しない」
 彼女に向かってではない。それは自分に言い聞かせる為の言葉。 
『……そう』
 彼女の唇が三日月形に歪んだ。けれど紫の瞳は何の感情も見えず、ただ澄んだ氷のようにサンジを捉えて離さない。
 じわりと嫌な汗が手に滲む頃、彼女は現れた時と同じく空気に溶けるように掻き消えた。
 
 
 
 
 
 
 穏やかだった航海は翌日から急変した。

 気圧がぐんぐん下がり、黒く幾重にも連なった雲が不穏な速さで上空を流れていく。雨粒は次第に激しくなり、荒れた風とともに船を容赦なく叩き始めた。
 甲板はバケツの水をひっくり返したような豪雨を浴びて、暴れる水しぶきで白くけむる。
 船は木の葉のように荒れ狂う海の中に放りこまれ、そして嵐との戦いが始まった。
 
 小さな船だ。海面に叩き付けられるようにくるくると翻弄されるその身を、少ないクルーが全員で動かさねばならない。帆の調整さえやってしまえば後は見張りと舵取りを交代で行えばいいが、航海士であるナミだけは休んでるわけにもいかない。海に力任せに引っぱたかれた船首を、正しい軌道に戻さねばならないからだ。流されてしまえば、あっという間に座礁してしまうことだってありうる海域だ。波が高いうちは碇も降ろせない。
 けれど嵐は夜になっても収まる気配をみせず、不測の事態に備えてクルーは皆、舵もラウンジも備えたキッチンで寝泊りすることにした。
 ナミが仮眠を取る際は、海図の読めるサンジとロビンが交代でログポースを見て位置を測る。
 このくらいの嵐は手慣れたもの。きっと明日になればまた青空が覗くだろう。
 しかし誰しもが思っていたその予想は外れ、雨の気配はそれからずっと消えることはなかった。
 
 
 2日後、船はようやく最初の島の影を捉えた。
「おおぃナミ!あれそうじゃねぇか!」
 少しだけ雨の弱まったキッチンの表に出て、合羽姿で双眼鏡を覗いていた見張りのウソップが声を上げ、キッチンからクルーも顔を出す。
 無人島は遠目からわかるほど小さく、何もない島だった。海底から隆起したのであろう赤黒い岩が辛うじて地形を作ってはいるが、その表面には草の一つも生えていない。
 こんな嵐を凌ぐ隙間もないような剥き出しの岩肌。念の為双眼鏡でくまなく見たが、小船は勿論人が雨を凌げる場所もない。
「つまんねぇ〜」
 冒険にならないと口をとがらす船長は、連日の嵐で甲板にすら出られずかなり不満が溜まっているようだった。
「まだまだこれから!次行くわよッ」
 明るいナミの声に、おー!とクルーも声を上げた。
 
 
 
 
 常に嵐の真ん中にいるような状態で、一歩ずつ船は粘り強く進んでいた。
 それでも、危険な海域ゆえにやむなく停泊を余儀なくされることも少なくなかった。
 島は見えないまま、日にちだけがどんどん流れて行く。
 
「食料は大丈夫?サンジくん」
「まだひと月くらいは大丈夫だよ。だから安心してナミさん」
 笑って答えれば、ナミはホッと表情を崩して海図に目を戻した。
 部屋に閉じこもりっきりの航海に、クルーの表情もみなどことなく晴れない。
 ナミの場合は常に神経を張っている為に、顔に疲労の色が濃くなってきている。温かい、少し甘めのコーヒーを入れてあげて、サンジはキッチンを出た。
 
 船を覆う暗い雲からは、絶え間なく冷たい雨が降り注いでいる。 
 この航路に入ってから15日が過ぎた。けれどまだ、船は予定の3分の1も進んでいない。
 食料はまだまだ心配はない。
 
 けれど。
 
 
『どうするの?』
 荒々しく波打つ海を見下ろしていたサンジの耳元に、姿のない、聞きなれた声が落ちる。
「……」
 その気配には答えず、サンジは静かに目を閉じた。
 
 

 
 
 *7へ*

 
 
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 07.07.10