泡恋 3
 --------------------------------------------------------------------------

 
 
 
 
 
 ひやりとした感触が瞼に落ちる。
「……から、安心して」
 遠くで囁かれる声に、暗い意識が浮かび上がった。
 目を開けると分厚い何かに視界が覆われている。手を伸ばして触れれば、それが濡れたタオルだということがわかった。
 取り去ればそこは、すこし黄ばんだ何処かの部屋の天井。壁際のワインラックが目に入って、ああキッチンだと気付く。
 体を起こそうとしてうめいたサンジに、視界の端に映ったチョッパーが気付いて慌てて走りよってきた。
 
「サンジ、まだ寝てて!気分はどう?吐気はする?」
「ああ…悪ぃ、もう大丈夫だ」
 不安そうに診察の手を伸ばすチョッパーに笑って、サンジは上半身を起こした。先ほどの焼けるような痛みは不思議とおさまっていた。
 チョッパーの向こうに、憮然とした表情で腕組みするゾロが見えた。
 よりにもよってゾロの目の前で倒れるとは格好悪い。
 サンジは小さく舌うちして気まずい思いでゾロから目を逸らした。キッチンの長椅子に寝かせられていたらしく、背中がギシギシ痛む。
 チョッパーは首から下げた聴診器でサンジの呼吸、それから目と舌を検診した後、壁にもたれて立っていたゾロを振り返った。
「ゾロ、もう大丈夫だから降りてもいいよってナミに言ってきてくれる」
 上陸していたみんなが船に戻ってきたのだろうか?チョッパーを探す際に、ゾロが手当たり次第に声をかけたのかもしれない。
 心配して残ってくれていたのだろう優しいナミに、サンジは心の中で謝った。
 小さく頷いて出て行くゾロが扉を閉めるのを確認してから、チョッパーはサンジに向き直った。
 困ったように寄った眉の下、戸惑うようにつぶらな瞳がさ迷う。
「あのねサンジ、立ち入った事聞いてごめん。でも診断の為に聞かせてほしいんだ」
「ん?」
「…その左眼、何か病気だったのか?」
 
 直球で来たその質問に、サンジは一瞬息をのんだ。
 チョッパーの目が不安げに見上げる。その芯にしっかりした医者の意志をみて、サンジは静かに力を抜いた。
「ゾロが言うには、サンジが倒れた時、痛みに左眼を押えてたって。もしかして今回のことは、その病気の後遺症とかかもしれない、と思って」
 左眼に対するコンプレックスは、やはりいつまでたっても完全に抜け落ちやしない。
 勇気ある小さなトナカイに、サンジは苦笑するとひとつ大きく深呼吸をした。
 苦笑したのは、忘れたつもりでもこうして不意を突かれて指摘されると怯んでしまう自分に対してだ。
 サンジはチョッパーの頭にぽんと手を乗せると、普段は前髪に隠されたその目をひょいと覗かせてみせた。
「…これな、小さい頃になんか心因性のショックで色が抜けたんじゃないかって言われてる。視力は弱いが、ちゃんと見えもする」
 色素を失った灰色の瞳を見ても、チョッパーは動じなかった。
 医者だし、それよりもまず仲間なのだから多少驚かれたっていいのだが、そういう些細な反応を未だに気にしてしまうのも事実だ。これがレディ相手だったなら特に。
 チョッパーは小さいライトを取り出すと、サンジの瞳を覗き込むように光を動かしてその反応を伺った。
「残念ながら、当時の医者にもはっきりとした原因はわからなかったみたいだぜ」
「今までにも痛んだりしたことは?」
「いや、記憶には一度もない。今回がはじめてだ」
「そうか…ありがとう」
 チョッパーはライトを消すと手元のカルテにいくつかサラサラと書き込み、もう一度サンジ手を取って脈を計った。
「ほんとにもう、痛まない?ゾロが運んで来た時は意識が無かったんだ。それほどの発作なんて…」
「大丈夫だって」
 やんわりと手を解いて立ち上がったサンジに、チョッパーは溜息を一つついていつもの鞄に診察道具をしまいはじめた。無茶するなと言ったところで大人しくしてくれるようなクルーが、この船には乗っていないことをよく知っているからだ。
「何か異変を感じたらすぐに言ってくれよ」
 それでも眉をしかめて念を押すチョッパーに、サンジは笑って頷いてみせた。
 
 
 
 碇を降ろした暗い海の上、穏やかにメリー号が揺れている。
 サンジが全ての仕込みと思わぬアクシデントで出来ずにいた積荷の食材リストをまとめたときには、既に日付が変わりそうな時間になっていた。
 風もなく穏やかな今晩は、見張りのルフィもさぞいい夢を見ていることだろう。
 よほど大きな島やログを溜めるのに長い日数が必要でもない限り、クルーは港に停めた船の中で寝泊りすることになっている。そのほうが節約できるし出航の準備に効率がいいからだ。
 サンジはキッチンの明かりを消すとバスルームへ向かった。
 普段から一番最後にシャワーを使うのはサンジであることが多い。
 長い航海の間は、この時間を狙ってゾロが手を伸ばしてくることが常だった。
 自分の方がシャワーよりさきに、マリモが寝っころがっている場所を探して赴くときもある。
 しかし島に着いたとあれば、ゾロもしばらくは大人しくしているだろう。今日はサンジのせいで動けなかったかもしれないが、明日はまたたっぷりどこかのレディ相手に慰めてもらうのだろうから。
 白い腕に抱かれるマリモ頭を想像して、サンジは小さく舌うちをした。
 今日は思わぬ出来事で暇がなかったが、明日には自分もゆっくり島を見て回ろう。
 その時には自分だって、優しいレディと素敵な夜を過ごすのだ。
 
 
 寝ているレディたちを考慮して物音を立てないように動きながら、サンジは風呂場の鏡の前でシャツの前を開いた。映る体をチェックする。
 体を繋げた最初の頃、ゾロはまるで躾のなってない獣のように自分の体に歯を立てた。おかげで翌日のサンジの肌は赤黒く変色した歯型やら吸い痕やらで散々なことになっていたものだ。
 こんなんじゃ島に着いた時にレディとあれこれできないだろうが!と叱り飛ばした時のゾロの顔が、拗ねたガキというか獣というか、なんとも言えない妙なものだったのを覚えている。
 思い出して笑いながら、サンジは鏡に顔を近づけると左眼に掛かる髪をかきあげて耳に掛けた。
 鏡に冷たく映る、グレーにくすんだ自分の目。
 オッドアイなんて素敵ねと言われたこともあるが、やはり大抵のレディが黙って、そして残念そうな顔で自分の頬を撫でた。
 優しく瞼に落とされるキスに、なんとも言えずに笑みを返した。
 
 小さい頃はもっと別の色だったはずなのだが…さっきチョッパーに言ったように、あの海難事故を境にこんな色になってしまったらしいとしか、今の自分にはわからない。
 ゼフと過ごした孤島での85日間。それは心因性のショック、と一言で片付けられるような体験などではなかった。
 けれどその体験全てをサンジは覚えているわけではない。
 打ち上げられてゼフが足を切ったのを知ってから、本格的な飢えとの戦いが始まって。体が衰弱し意識も朦朧としていた最後の方の記憶はほとんどないと言っていい。
 今思うとよく生き延びたものだと、ただ不思議になるくらいだ。
 
 
 
「覚えてないの?」
 
 
 シンとした空間、耳元で突然女性の声が響いた。
「っ!?」
 ハッと振り返ったサンジの前に、しかし人影はない。
 狭いバスルーム。目の前の扉は閉まっていて、浴槽とトイレしかない深夜のバスルームに自分以外の人間がいるわけもない。
 
「……?」
 サンジはそろそろと気配を探って身構えた。
 念の為そっと扉を開いて確認するが、やはり暗い倉庫に人の気配は感じられない。
 ハナハナの能力を使ったロビンかとも思ったが、声はナミとロビンのどちらでもないものだった。
 それならなお更、自分が気配に気付かないはずがない。しかし息を殺したサンジの前で、バスルームはシンとして物音一つしない。
 サンジはゆっくりと鏡の方へ向き直り、そこでふとした違和感に気づいた。
 鏡に映る自分の顔。
 グレーにくすんだ左眼が、紫色に輝いている。
「な……ッ」
 一歩後ろに下がったサンジの前で、鏡に映ったサンジの唇がニイッと持ち上がった。
 
「久しぶりね」
 
 鏡の中のサンジが笑った。その口から発せられる、先ほどの女性の声。それは脳に直接入ってくるように、ざらりと甘く耳の奥を撫でた。
 驚くサンジの前で、鏡の中の顔がゆるゆるとだぶり始める。
 サンジの顔の表面に少しずつ女性の顔が滲み出し、ずるり、とやがて中から抜け出るようにもう一人の姿が現れた。
 
 腰までたゆたう長い髪、白くて細い肢体には何も身につけていない。
 けれど全身透けるようにその輪郭は曖昧で、ほのかに銀色に輝いている。
 妖艶な、けれどいやらしさというものは感じさせないどこか作り物めいた綺麗さ。この世のものではないような存在感にサンジは背を正した。
 
「夜更けに一体何用で…?レディ」
 にこりと営業用のスマイルを持って、サンジは目の前の女性を見つめた。
 悪魔の実の能力者なのか、はたまた人魚などの伝説にも謳われる精霊の類なのか。グランドラインを航海するのだ、最早大抵のことじゃ驚きはしない。
 それよりも大事なのは、この船の中に入れてよいのか、敵か味方か、その判断だ。
 レディなら例え敵であっても歓迎してしまう自信があるサンジだが、何故だか目の前の女性に対してはやけに冷たい汗が背を伝うのを止められなかった。
 
 彼女は腰から下を鏡に埋めたまま身を伸ばしてサンジの正面に目線を合わせると、赤い唇をゆるやかに開いた。
「私のこと、忘れてしまったの?」
 笑いながら女性の白い両腕がサンジの頬に向かって伸ばされた。
 サンジの一瞬の躊躇いの間に、氷のように冷たい手が頬に触れる。
 
「……ッ!?」
 瞬間、ブワッと目の前に広がった原色の風景にサンジは息を呑んだ。
 
 忘れられない、だからこそ記憶ごと捨ててしまったはずの。
 
  真っ赤に染まる血のような夕陽。焼ける肌。渇いた体。干からびた小さな手。声も忘れた喉。変わらない地平線。倒れた片足の老人。白い女性。赤い唇が弧を描く。伸ばされる腕。左眼に落ちる、冷たいそれは。
 
  『―――いいこね』
 
 ブチン、と唐突に映像が途切れた。
 怒涛のように流れ込んできた情報に、気付けばサンジは荒い呼吸を繰り返しながら震える手で洗顔台にしがみついていた。
 むせ返るように鮮明に体に呼び起こされた途方もない飢えの記憶。焼け付いた光景。体の奥から引っ張り出されたその感触に体が震える。
 二度と味わうことがないと思っていたその絶望をまざまざと思い出させられて、サンジは汗ばんだ手で自らの体を抱いた。
 色を失った白い手にぎゅうと力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。
 
「思い出した?」
 紫の瞳で彼女が笑った。
 サンジは渇いた喉を鳴らした。
「あなたは、だれ――」
 幼い記憶に引きずられて、拙い言葉が口から漏れた。
 
「私を指す名前は沢山あるけれど、ひとつも私のものではないわ」
 謎かけのように彼女が笑う。
「――悪、魔……?」
 そうだ、あの日、燃えるような夕陽の中で彼女を見た自分はそう思ったのだ。
「あなたが言うならそうなのでしょう」
 肯定はしないまま、彼女はうっとりした目でサンジを眺めた。
 
「綺麗になったわね」
 呆然と立つサンジの頭ら爪先までを、その目線が這う。
「金の髪、白い肌、それからこの…青い、目」
 白い手が右目に伸ばされる。
「……っ!」
 あの時左目に落とされた感触がフラッシュバックして、サンジは咄嗟に身を引いていた。
 風呂場をあとずさったサンジに、彼女は伸ばしかけた手を引いてくすりと笑った。
 
「約束を果たしにきたのよ」
 その言葉が差す内容に、サンジは顔を強張らせた。
 
 『アナタに本当に愛した相手が出来た時、その想いを告げなさい。
 それが相手に受け入れられれば、アナタの勝ち。
 拒絶されたら、負けよ』
 
 今しがたありありと思い出したその内容。
 けれどサンジは慌てて目の前の女性に目を向けた。
「待ってくれ、俺が本当に愛した相手…――?」
 ナミやロビンには変わらぬ愛をずっと注いでいる。
 バラティエ時代にだって勿論沢山の愛した女性がいた。
 それがなんで今更。
 一体誰を――。
 
「今日、ようやく自覚したでしょう」
「……?」
「本当の相手。本当の愛を」
「ほん、とうの…?」
 
 今日の出来事を思い出す。
 と同時に浮かんだ顔に、サンジは慌てて首を振った。
 
「そんなバカな!俺はマリモなんてちっとも…!」
「本当に…?」
 その先を言わせず、やさしく歌うような口調で彼女がトンとサンジの胸を指先で突いた。
 ゴウッっとまるで嵐が吹き荒れるように、胸の奥から引きずり出される感情。
 再び目の前を駆けるような光景に、サンジは目を見開いた。
 
 
  初めて体を繋げた日。
  暗い格納庫。
  どちらが何を言ったのかすら覚えていない。
  ただ熱に溺れるように、目の前の呼吸で全てが埋まった。
  ひたすら追った快感。分け合った熱。信じられない程熱くて。
  その痛みに溶けてもいいと本気で思った。
  離れた体温。
  唇なんて気付けば一度も触れないまま、一人見つめた天井。
  扉を出て行く傷一つついてない、綺麗な背中。
  振り返るはずもないそれをぼんやり追った。
  あの背に思い切り触れたくて、爪を立ててしまいたくて。
  でも立てられなかった。
  背中に触れる冷たい床の感触。体に残るその痛みに行為の結果を知る。
  そうか、俺は。
  薄暗い月明かりに浮かび上がる、白い自分の手をじっと見る。
 
   
  伸ばしてはいけないんだな。
 
 
「……――ッ」
 
 堪えきれずに悲鳴をのんだサンジを、彼女が優しく追い落とす。
 
「ほうら、ね?」
 
 甘く優しく降りかかる声に、サンジは乱れた呼吸のままシャツを握り締めた。
 埋めた記憶。
 諦める為に忘れた記憶だった。
 
 ゾロに対する気持ちを自覚すると同時に、一方的なものだと知らされた。
 それはひどく惨めで(だって男相手に)諦めようとして(この俺が縋るなんて)相手はゾロだし(いつだって対等でいたいんだ)それにあの目が(伸ばした手を叩き落とされるのは)。
 
 ―――怖かったんだ。
 
 なんてひどく、醜い感情だろう。
 卑怯で、弱い。
 吐気がするほどの。
 そんな自分がたまらなく嫌だった。
 手段も選ばずにゾロの何もかもを欲してしいそうな、そんな哀れな姿を曝すのなんて耐えられるはずがない。
 本気になる前のささやかな感情。
 その姿であるうちに、芽吹く前の種を握りつぶした。
 ゾロとはただの遊びなんだからと。体を繋げる行為に意味なんて最初からなかったのだと。
 お互い対等の立場で渡っていける為に、それはサンジの唯一の手段だったのに。
 
 荒々しく渦を巻く感情に、サンジは熱く震える体を抱いた。
 
 今こうして、何もかもが掘り起こされてしまった。
 とうに捨てたほんの小さな、ささやかな想いだったはずなのに。
 時を経た今、それはこんなにも大きく心を揺さぶる。
 
 
 見透かしたように、彼女の唇が持ち上がった。
 
 
「――それでは賭けを、始めましょう」
 
 

 
 
 *4へ*

 
 
 
 --------------------------------------------------------------------------
 
 07.01.31