Calling 3 ------------------------------------------------------------------------------- |
「……変わんねぇな」 まず頭の先から全身を眺め見て、ゾロは屈託なくサンジに笑った。 「…あぁ?こんな素敵に成長した俺を捕まえて変わってないたァ言ってくれるじゃねぇか」 条件反射のように飛び出した言葉。 昔よく言い合いをしたそのままの調子に、サンジ自身内心で驚く。 「いやなんかそういう気の強いトコとかよ、あとこう…なんつーか、いつもピカピカしてる」 ゾロの目線が嬉しげにサンジの頭に上がって。 「…んだそりゃ」 少し照れくさいような不思議な気持ちで、今度はサンジがゾロの全身に目をやった。 「てめぇは……変わったな」 記憶の中、共に駆け回っていた幼いゾロのあの無邪気な可愛らしさはどこへやら。 目の前に居るのは揺ぎ無い目と逞しい肉体を持つ、若々しいひとりの男。 力強く成長したその姿に、サンジはふわりと笑った。 ゾロの目が、何故か一瞬まぶしそうに細められた。 やわらかな朝日が、肌の表面を暖かく包み始める。 互いを見つめたまま、静かに佇む穏やかな時間。 まるで明け方の夢のように不確かであたたかな邂逅の余韻に、サンジは体の冷たさも忘れてぼんやりと立ち尽くしていた。 その空気を小さく揺らすように、ゾロがふと目線を落とした。 「…ジィさん、死んだんだってな」 静かな声で、後ろを振り返る。 「ああ……」 まだ夢を見ているような心地のまま、ゾロの声に促されるようにサンジはゆっくりその石に歩み寄ると、静かに手を置いた。 昔ゾロと一緒に腰掛けた石。 今ではその表面に幼い自分が綴った拙い祈りの言葉を載せて、この下に眠る老人を守っている。 「そうか」 入港管理所のじいさんに聞いたんだ。ゾロはそう小さく呟くと、再び石の前に片膝を付いた。 そしてごつくて大きな手の平をぴたりと合わせると、静かに目を閉じる。 サンジは黙って、目の前で屈んだ大きな白いシャツの背を見た。 広い背中だ。 サンジと身長はそう変わらないのに、シャツの上からでもわかる隆々とした筋肉がゾロの強さを物語っている。 よく見れば剥き出しの腕には、いたる所に細かい傷痕が残っている。それは随分古いものから、まだ新らしそうなものまで様々だった。 がっしりとウェイトのありそうな体躯。腰に差した三本の刀。 この八年、一体どこで何をしていたのだろうか。 剣の道を今でも極めようとしているのか。 広い海を旅してきたのか。 どんな国を見てきた。 こんな傷だらけになるまで、どんな相手と戦ってきた。 この島にはいつ着いたんだ。 元気だったのか。 沢山の言葉がようやく頭に溢れてくる。 しかし何から言えば分からなくて、サンジは黙って零れそうな言葉を飲み込んでゾロの背中を見た。 暖かそうな、なだらかなライン。 惹き寄せられるように、ふらりと手が動いた。 やわらかな空気を壊さないように、そっと、そっと、手を伸ばす。 その時視界に自分の細い手首が映って。 サンジはハッと我に返った。 弾かれたように手の平を握りしめて、触れる寸前だった腕を慌てて下ろす。 消えかけた、小さな傷痕。 手首に巻いていた包帯。 汚い行為に触れさせないように。 ゾロとの絆が、穢れないように。 ……そんなのは、ただの足掻きだ。 ゾロと別れてからの年月、自分はどんな生き方をしてきたというのか。 何の力もなく、抵抗もせず。 守る為だという建前で誤魔化して。 本当はただ、あの男の手で与えられる快楽に身をゆだねてきただけだ。 大きく成長したゾロを前にして、サンジは初めてその現実に気づかされた。 頭を殴られたように、一瞬目の前が遠くなり。 ゾロと自分との間にある深い落差に目をみはった。 年月を経ても、ゾロは昔と変わらない真っ直ぐな目をしていた。 それは充分、ゾロのこれまでの生き様を伺えさせた。 比べて自分は。 ひどく恥かしくなって、サンジは震える手を握り締めた。 この八年、自分はゾロに胸を張れるようなことなど何一つやっていない。 ゾロにとっては幼い頃に自分とつけた傷跡など、ささいなものでしかないだろう。 その他のたくさんの輝かしい人生の傷跡に埋もれて、きっともう見えなくなっている。記憶にだって残っているか。 それなのに――自分は。 なんて馬鹿で、愚かしい。 サンジはゾロの背を見つめたまま小さく後退さった。 冷たい指先が乾いた草を踏みしめる。 そして下ろしたまま左腕の、袖のボタンをそっと留めた。 ゾロの背中は凛として、綺麗で。 とてもサンジが手を伸ばせるようなものではない。 朝焼けの中で手を合わせるその姿は、どこか一枚の絵のように遠く感じた。 やがて再びゾロが立ち上がり。 サンジは遠く輝く海の眩しさに目を細めるように視線を逸らして。 そのまま緩やかに笑った。 「……八年ぶりの俺の腕前、味わっていくだろ?」 まだ従業員も来ない時間。裏口からゾロをレストランに入れて、サンジは厨房に立った。 ゾロは懐かしそうに朝日の差し込む店内を見回すとカウンターに座り、サンジの動く姿を見て笑った。 「ジイさんに包丁握らせてもらったばかりだったテメェが、今じゃここのオーナーとはな」 「テメェだって竹刀片手に毎日傷だらけだったじゃねぇか」 「…違ェねえ」 サンジが即席で作ったチキンライスにふわふわの溶き卵を混ぜたものを、ゾロは昔と同じようにパン!ときちんと手を合わせて礼をしてから勢いよくかき込み始めた。 気持ちのいい食べっぷりに、自然とサンジの頬も緩む。 「まだ他にも作ってやるから、そんな焦って食うな」 レストランの冷蔵庫を漁りながら声を掛けると、ゾロは昨晩遅くにこの島に到着したものの、ろくな飯を食べていなかったこと。宿の朝食を待つより、早くここに来てサンジの料理を食べたかったことなどを飯を詰め込む合間に告げた。 てらいもなく言われた言葉に、胸の奥がむずむずと暖かくなる。 それが妙に照れくさくて、サンジは顔を俯かせると食材に格闘するのにわざと夢中になった。 「しかしこの味…昔と変わんねぇな」 次々と出される料理を片端から平らげて、ゾロが笑った。 「あ?なんだそりゃ、チビ時代から進歩してねぇって言いたいのか!?」 どんな味音痴だ!と思わず条件反射で蹴ってやろうかと思ったが。 「違ぇよ」 なんだか優しい目をして、ゾロが自分を見ていた。 「美味いってことだ」 にっかりと笑った顔に、呼吸が止まるかと思った。 「…………サンキュ」 心臓がせわしなく動き出して、耳の端が熱をもったように赤く染まる。 ゾロの顔をまともに見ていられなくて、サンジは慌てて空になった皿に手を伸ばした。 自分の料理を、美味いと言ってくれる。 昔と同じ笑顔で、食べてくれた。 そのことに、なんだかひどく泣きそうになった。 「俺は今、世界一の剣士になることを目指して旅をしている」 突然ゾロの深い声が静かな空間に響いて、サンジは顔を上げた。 そこで再び、今日何度も垣間見たゾロの本質であるかのように真っ直ぐに強い瞳と視線がぶつかる。 なんて大きな望みだろう。 サンジはゾロの澄んだ目を見つめながら、小さく笑った。 大きくて、途方もなくて、まるで夢のようだ。 けれどゾロらしく、潔い野望だ。 「……すげえな」 真っ直ぐに、ゾロはいつかその道の先にたどり着くだろう。 暖かな確信が胸の奥に落ちる。 驚くでもなく、からかうでもなく、ただ穏やかな気持ちでサンジはそれを受け止めた。 「頑張れよ…てめぇらしいじゃねぇか」 送り出す側の寂しさのようなものが、心の端をくすぐる。 それを押し殺して返したサンジの笑みは、しかし次の瞬間崩れ去った。 「俺と一緒に、海へ出ないか」 突然の言葉に、息を呑んでサンジはゾロを見た。 真っ直ぐ真剣な表情を崩さぬまま、ゾロはサンジを見据えている。 「は…?なに…馬鹿なこと…」 「何がだ。俺の野望がか」 「違う!そうじゃなくて……なんで俺が、てめぇと一緒に」 予想もしていなかったゾロの言葉。 すうっと指先の熱が引いて、じわじわと嫌な汗がにじみ出る。 心臓が早鐘を打ち始める。 ゾロはそこでちょっと困ったように目線をさ迷わせた。 「ただガキの時みてぇにツルんで、そんでまた、テメェの飯を食えたらいいなって…最初はそんな漠然とした気持ちでこの島に来た」 サンジは息を殺すようにぎゅっとシャツの胸元を握って、ゾロの顔を見つめた。 「でも今日てめぇに会って、飯食って、気持ちがはっきり固まった」 にっ、とゾロが笑う。 「俺はてめぇを連れて行きてぇ」 その言葉に今度こそ打ちのめされるように、サンジはふらりと片手をテーブルについて支えた。 自分が触れてはならないと思ったほど、まっすぐで綺麗なゾロ。 サンジがどんなに汚れているか、この八年どんな生き方をしてきたか知らないから、ゾロはためらいもなく手を伸ばす。 かたかたと冷えた足を小さく震わせるもの…これは恐怖だ。 伸ばされた手、それに触れられるのが、怖い。 暴かれるのが。 ゾロに失望されるのが……怖い。 「……無理だ。それは、……できねぇ」 呆然とゾロを見つめたまま、サンジは呟いた。 「何でだ」 声が震えてしまわないように、ゆっくり、大きく息を吸い込む。 「俺はこの場所が大事なんだ…ここで、今の生活が……気に入ってる」 嘘じゃないと。 サンジは自ら確かめるように慎重に言葉を選んだ。 「……」 ゾロの目が、いぶかしむように、探るように細められる。 描きもしなかった未来を突然目の前に突きつけられて、サンジは足がすくんだ。 ゾロと二人で、海へ出る。 考えてもみなかった、まっさらな可能性。 それはとても光に満ちていて。 とても、怖い。 「でもてめぇ、いつかジイさんと一緒に海に出たいって言ってたじゃねぇか。夢だったんだろう?オールブ…」 「お互い!」 ゾロの言葉を打ち消すように、サンジは声を張り上げた。 「…もう、チビの頃とは違うんだ」 そして静かにゾロに笑いかける。 「……だから一緒には、行けない」 「サンジさん、誰だいソイツは」 沈黙を破るように、声がした。 はっとして振り返れば厨房の奥、二階に続く階段から降りてきたギンが、射るような目でゾロを睨みつけていた。 ゾロも突然現れた人相の悪い男に、警戒するような目を向ける。 ギンがいることをすっかり失念していた。 サンジは内心小さく舌打ちすると目の前の空皿を取り上げ、何事もなかったようにシンクに運んで水を捻った。 ゾロが何かを感づくとは思えないが、自宅にギンを泊めていることを知られたのはどうにも後ろめたい。 「悪い、起こしちまったか。コイツは昔の知り合いで、つい話が盛り上がっちまってな」 朝飯食うんだろ、着替えてこいよ。そう言ってやるとギンはほっとしたように表情を崩して再び二階に引っ込んだ。 「とにかくそういう訳だ」 気持ちを切り替えるように、サンジは明るく息をつくとゾロに笑いかけた。 「しばらくは島にいるんだろ?また飯、食いにこいよ」 ゾロは獣のような目でじっとサンジを見ていたが、やがて静かに席を立った。 「…また来る」 そう言って。 裏口に消えた広い背中を、サンジは笑ったまま見送った。 心臓が嵐を前にした動物のように、激しく震えて止まらなかった。 |
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